溝口彰子さん [ S/N ] イントロビデオ日本語原稿の公開

「S/N」記録映像世界初配信にあわせて、作品解説を提供してくださった溝口彰子さんに以下の文章を提供していただきました。

本イベント <"LIFE WITH VIRUS": Teiji Furuhashi in New York> 日本語詳細はこちら:http://normalscreen.org/events/lifeteiji 

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2021年5月9日まで以下のURLから登録することによってダムタイプのパフォーマンス「S/N」が無料で視聴できます。同サイトでは私の「前説(introduction)」も視聴できますが、英語のみのため、日本語の概要を読みたいというご希望をいただきました。

https://www.eventbrite.com/e/life-with-virus-teiji-furuhashi-in-new-york-tickets-148996569751

そこで、以下に、事前に作ったメモ書きを公開します。なお、こちらは、「だいたいこのような内容で話します」ということを、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんとノーマルスクリーンの秋田祥さんに伝えるために作ったものなので、動画の内容と完全に合致はしません。9割程度として参考にしていただければ幸いです。(テキスト公開にあたって出典など注を加筆しました。また、日本人名はカナ表記、敬称略になっています)

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ハイ、I’m あきこ・みぞぐち、ヨコハマ在住のクィア・ビジュアル・カルチャー・セオリストです。ハウ・アー・ユー?

主にパフォーマンス「S/N」を配信で初めてご覧になる英語圏のみなさんに向けて、私がこれから話すのはあくまでも私個人としての経験や見解だが、みなさんの参考になればと思う。

*スナップ写真 1995年6月下旬NYC(手書きキャプションも見せる)

パフォーマンス「S/N」と時期が重なって発表されたテイジ・フルハシのソロ・インスタレーション作品 “LOVERS”がMOMAで展示された時に、NYCの、たしかグリニッジヴィレッジのカフェ書店前で。(注1)

一番左のサングラスをかけているのがテイジ。そのとなりがヨウコ。ひとつあいて、体をかがめているのがダムタイプメンバーでLOVERSにもかかわったシロウ・タカタニ。その次の、赤い麦わら帽が私、右端が私のパートナーのナオコ。店内のスツールの左側も友達のアヤノ。

テイジ本人とシロウはMOMAでの仕事での滞在だが、それ以外は私も含めて、自費で日本からNYCに来ていた。アヤノとヨウコは京都から。ナオコと私は横浜から。他にも京都からNYに来ていた友達がいたと思う。

私は、ていじが1992年に「LIFE WITH VIRUS」という手紙を送った友だちと合同制作者friends and collaboratorsのなかには入っていなかった。だが1995年6月時点では友達になっていた。

よく覚えているが、6/29(日)のプライド・パレードの日について、テイジが、「MOMAに行っている場合と違うよ」と言ったこと。もちろん、私はパレードにもMOMAにもそれぞれ別の日にいった。

少しさかのぼる。

先述したように私はテイジからの1992年の手紙は受け取らなかったが、ダムタイプの「S/N」の前の作品「pH」の1990年の初演時から、1996年末まで東京のスパイラル(ワコールアートセンター)で働いていたため、ダムタイプの人たちとはアーティストと、プロデュースやVENUE側のスタッフとして、知り合っていた。彼らは、フレンドリーでチャーミングな人たちだったし、ほぼ同世代だったので話しやすかったけれど、「友達」という関係ではなかった。

1993年の「S/N のためのセミナー・ショー」でテイジがゲイでHIVポジティヴだとカミングアウトし、セミナーショーなので客席からレズビアンの観客からのコメントも出たりしたのには、驚いた。実は、私は1992年から、レズビアンとバイセクシャル女性のためのミニコミ「LABRYS」で、ペンネームで活動していたレズビアンだったからだ。当時はソーシャルメディアどころかインターネットも普及していなくて、紙のミニコミが有効だった。

*「LABRYS」を手にもって見せる

1995年まで続いたLABRYSの購読者は日本全国で最大1,700人。それだけの数を数人で封筒に入れて郵送作業をすることを想像してみて欲しい。……ともかく、当時は顔と名前を出して活動するレズビアンは半ダースくらいしかいなかった時代。私は、職場スパイラルではレズビアンであるとカミングアウトしていなかったし、したいとも思っていなかった。

だが、そのままだと、自動的に異性愛者女性だとみなされ、「同性愛者」を「他者」とみなした語り方をすることになる。それは耐えられなかった。そこで、仲の良い同僚から始めて、スパイラルでも徐々にカミングアウトしていった。1995のNYCの写真の時点では、職場の人たちも、私がダムタイプ「S/N」の担当のひとりで、テイジをはじめメンバーやその周辺の人たちと友達で、休みをとってNYCに行くということは知っていた(一部の人は私がレズビアンであることも)。

このように、「S/N」との出会いで大きな決断をして行動をした人は、ほかにもたくさんいた。

今の日本では写真のエイキ・モリなどゲイだとカミングアウトしたアーティストは数人いるが、1993年時点の日本においては、テイジはアーティストでゲイとしてカミングアウトしたほぼarguably初めての人であった。また、アート界だけでなく日本全体を見ても、HIV+だとオープンにしている人は数人もいなかったはず。したがって、テイジのカミングアウトはとてもセンセーショナルだった。覚えているが、美術やパフォーマンスの評論家何人かが、スパイラルの私に電話をしてきて、「S/N」で古橋くんがゲイでHIV+だと語ったけどあれは本当なの? それとも作品上の設定? などと、質問したほどだ。ダムタイプ・オフィスに電話するのではく。(カクテル療法が登場したのが1996年。U=Uな今日とはまったく違う、HIV +になるとは、時間の問題でAIDSを発症するという時代だった)

と、言ったそばから付け加えないといけないが、「S/N」のおしゃべりchit chatのシーンでテイジと、アレックスとピーターはゲイだとカミングアウトするが、ブブは、かつて結婚していた異性愛者の女性として「カミングアウト」する。そして、事実としてダムタイプのメンバーはパフォーマーもテクニカルスタッフもマネジャーもふくめて、異性愛者のほうが多かったのだが、彼らは全員異性愛者として「カミングアウト」をした上で「S/N」を作っていた。だからこそ、作品が、「カミングアウトしたゲイを受け入れ、応援する」といった次元にはまったくとどまっていない。「S/N」が扱う問題系は人種やボーダーや科学の申し合わせなど幅広いが、セクシュアリティという要素ひとつをとっても、その複雑さに踏み込んで、ひとつの答えを出すのではなく、思索し、分け入る、その意味で刺激的だ。ゲイの肯定的な表象を作り出すことはもちろん大事。だけど、そもそもゲイって何?

作品中ではミシェル・フーコーの「われわれは懸命に同性愛者になろうとするべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることではないのです」「彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません」が引用されている。(注2)が、ここで私は、ジュディス・バトラーの「模倣とジェンダー不従順(Imitation and Gender Insubordination)」(1991)にも共鳴すると言いたい。(注3)バトラーの論文としては珍しく、「16歳からずっと、レズビアンであることが私である」と、レズビアン当事者の立場から綴っている。

さらにバトラーはこう述べる。

私はずっとレズビアンであるのに、では、なぜ不安なのだろう? 居心地が悪いの だろう? イェール大学に、レズビアンになるために行く、と言えるような、その繰 り返しに関連しているだろう。レズビアンとは私が長年、そうであるものだ。では、私 がレズビアン“である”ことができ、しかしながら、同時にそうなるために努力しうる、 というのはどういうことだろう? 私がレズビアンであることは、いつ、どこで作用 するのだろうか、この、レズビアンを演じる(play)ことはいつ、どこで私の本質(who I am)のようなものを構成するのだろうか。私がそうであることにおいて“戯れる(play)” と言うことは、私が “本当には(really)”そうではないということではない。むしろ、 どのように、どこで私がそうであることにおいて戯れるのかによって、 “である” こと が確立され、正常な制度の一部とされ、流通され、確認される

しかも、このパフォーマンスからは本人の意志で距離を保つことはできない。もちろん、政治的な場で「レズビアン」として活動することはできる。だが、「レズビアンという記号」が何を意味するのかは、永遠に、本人にもはっきりとはわからない。そして、それはレズビアンに限らない。ソウル歌手アレサ・フランクリンが「あなたは私に、私が自然な女であるかのように感じさせてくれる(You make me feel like a natural woman)」と異性愛女性として歌っているが、「結局のところ、これは一種の隠喩的代替であり、ペテン行為であり、誇張された異性愛のふるまい(heterosexual drag)というありふれた活動によって生み出された存在論的な幻影に、ほんの一瞬、崇高たる参加をなしたようなことである」ともバトラーは述べる。同性愛者にせよ異性愛者にせよ、セクシュアリティの中身は本人にもわかりえない。「S/N」においては、男性同性愛者というマイノリティがカミングアウトし、それを肯定するというポリティカリー・コレクトな次元と同時に、セクシュアリティとは、本人を含めて誰にも完全にはわかりえないということ、だけど人は人を求めながらpeople need people、問題にフタをするのではなく~これはテイジの言葉だが~新種のふたを発明しなくてはならないということが、表現されている。(注4)

日本にはカミングアウトしたゲイのアーティストがいなかった時代に、「S/N」がここまでの複雑でニュアンスにとんだ次元に到達していたのは驚くべきことだ。

私は今、クィア・ビジュアル・カルチャー・セオリストとしてフーコーやバトラーをはじめクィア理論を読み、論文を書き、大学で教えたりしているが、1994年11月にモントリオールで初めて見て、1995年1月にスパイラルで複数回見て、その後も何度か記録映像を見ているパフォーマンス「S/N」というリッチな作品とはずっと対話を続けているし、テイジとも対話を続けているなあ、と感じている。

さて、私が理論トレーニングを受けたのは、アメリカNY州ロチェスター大学のビジュアル&カルチュラル・スタディーズ、故ダグラス・クリンプのもとでだ。ダグラスはもちろん、1977年の「ピクチャーズ」展で「アプロプリエーション・アート」概念を提示したことで知られ、さらに、1980年代後半には自らACT UPにも参加し、AIDS Cultural Analysis Cultural ActivismというHIV/AIDSと表象の政治的往還についての極めて重要な論文集を手掛けていた、オープンリー・ゲイで、セオリストでありアクティヴィストであった人だ。実はダグラスとの出会いもテイジのおかげだった。

*ダグラス著者近影(本のカバーより)

ダグラスは1994年の国際AIDS/STD会議(横浜)のサテライト企画としての、哲学者で美術評論家のアキラ・アサダとのシンポジウムのために来日した。ダグラスをNYのアパートメントに訪ねてアサダと一緒に招待を申し入れたときのテイジはsemi dragだったと、後日ダグラスは語っていたが、そのテイジの姿とはこの写真のようなものだっただろうか。京都のトラディショナルな旅館の庭の前で、左がアサダ、右がテイジ。

*ブルータス (撮影:キシン・シノヤマの手書きキャプションも)

ともあれ、Gregg Bordowitzのビデオ作品 “Fast Trip, Long Drop”(1993)やStashu Kkybartasの “Danny” (1987)などについて、AIDS患者を肯定的に描けばいいというものではない、という複雑さを真摯に語ってくれたダグラスの姿がとても印象に残り、レズビアンとして美術史やクィア理論を学びたいと思った時にぜひ彼のもとで、と思ったのだ。大学院に入ったのは1998年秋。そして、「レズビアンとして」の研究が、美青年キャラクター同士の恋愛を中心に描く漫画などのボーイズラブと女性たちのセクシュアリティーズ研究となり、中国語や韓国語でも出版される本の形になったのはどういう経緯か、

*『BL進化論』 日本語、中国語、韓国語版を見せる

それはまた別の機会に英語圏のみなさんにもお話しできたらと思う。そう、今年秋からウェルズリーカレッジでフェローとして滞在するしそう遠くないうちにできるような気がする。

最後に、映像版パフォーマンス「S/N」を視聴するにあたってのテクニカルなtip(コツ)をひとつ。

できるだけ重低音low-register soundが響く、よい音響acousticの機材を使ってください。私は、BOSE SOUND LINK MINIのスピーカーを使います。

*スピーカーを見せる

これが最低限かな。というのも、「S/N」は非常にパワフルなサウンド・アートでもあるからです。音に、音楽に、観客が溺れることが想定されています。

OK, that’s it from me. Thanks for listening. (最後はさらっと)


(注1)
この写真の撮影者はレギーネです。動画では口頭でもキャプションでも示し忘れてしまいました。おわびとともに追記します。(ヨウコとシロウの間が1席分空いていますが、そこに座っていたレギーネが撮影してくれました)

(注2)
ミシェル・フーコー(増田一夫訳)『同性愛と生存の美学』(哲学書房、1987): p.10&11

(注3)
Judith Butler, “Imitation and Gender Insubordination,” Henry Abelove et al. eds, Lesbian and Gay Studies Reader (Routledge, 1993): 307-320 (Reprinted from Inside/Out (ed. Diana Fuss, 1991) 和訳は溝口による。その際、以下を参考にした。ジュディス・バトラー(杉浦悦子訳)「模倣とジェンダーへの抵抗」『イマーゴ』vol.7-6, 1996:116-135

(注4)
正確には、「この場合の芸術とは、 “くさいものにふた“ のふたではなく、くさいものにすら変容を与えるような新種のふたを発明する力」。古橋悌二の言葉を引用するというよりも、自分自身の表現になっているが、古橋の影響の強さということでお許し願いたい。「1994年12月、西堂行人によるテキストとインタビュー」『メモランダム 古橋悌二』(リトルモア、2000)p.78-86

"LIFE WITH VIRUS": Teiji Furuhashi in New York
http://normalscreen.org/events/lifeteiji
https://visualaids.org/events/detail/life-with-virus
April- May 2021