ベトナムで抑圧された生活、育んだ関係をアーカイブするディン・ニュンさん

3週間のタイ・ベトナム滞在の終盤、暑い6月最終週。ベトナムの女性やセクシャルマイノリティの人々のストーリーを形にして伝えるディン・ニュンさんに出会いました。忙しいなか時間を割き説明してもらったその興味深い活動を紹介します。

ニュンは謙虚で自らの肩書きを名乗ることに戸惑いを見せるが、その活動はアーカイブからアート展示のキュレーション、ワークショップの指揮と幅広い。初めて彼女のことを知ったのはリサーチの過程でイギリスのザ・ガーディアンの記事を読んだ時だった。そこには彼女が、ベトナムの抑圧されたレズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、バイセクシャルの人々の所有する、とてもパーソナルなものをアーカイブしていると紹介されていた。その記事の話をすると、ニュンは「“アーカイブ”と一言で言ってもとても奥が深い分野で、それをしっかりと理解できているかは分からない」そう言って自身を“アーキヴィスト”というのを拒んだ。

アーカイブはハノイの非営利団体The Consultation of Investment in Health Promotion (健康とジェンダーの平等に向け活動している)の企画として始まり、2009年、彼女はそれをリードする人材として採用された。その目的は“伝統的な家族”を重んじることの多いベトナムで、思いを隠したり隠されてきたセクシャルマイノリティに関する所有物などをアーカイブしウェブサイトで公開すること。企画を進めるにあたりとにかくたくさんの資料を読んだニュン。新聞記事は図書館で探し、キーワードだけでは見つけられない記事も多く苦労したようだ。しかし面白い発見もあり、「1975年以前の記事でとても興味深いものがいくつかあった」と興奮気味に話す。1975年はベトナム戦争が終戦した年である。

ただモノを集めるだけではなく、それを保存し、情報を整理し公開するという大仕事を苦戦しながらも、実際にやりながら学んでいった。誰かからモノが送られてくることは少なく、話をシェアしてくれた人に直接なにかを提供してもらうようにお願いした。2010年にはレズビアンの人々とその友人たち50人で1日限りの展示を行った。「何ヶ月も準備したけど、1日だけ。メディアなどには告知せずレズビアンコミュニティだけが知っていた」と語る彼女の表情は当時を思い出し生き生きとしていた。

しかし団体の予算の関係もあり、やがてプロジェクトは終了。手元に残ったベトナム中から届いたたくさんのモノは、写真や、恋文、父親から叱られる度に腕を刻んだカミソリなど様々だった。一つ一つにあるストーリーの力強さを知ったニュンは、その後も個人でアーカイブを続けた。

アーカイブの重要性を考えるとこんなことを私は思う。同性愛がタブーの場では、同性間の関係がショッキングなイメージとして静止画のようになり、話がそこで止まってしまう。それが社会の知るレズビアンやゲイのイメージになり、複雑なストーリーは消え、当事者の可能性も狭められていただろう。それでも必ず人間にはそれぞれの時間があり、語ることを許されなかった経験だってある。無知な社会ではそれが消えてしまう。いや、消されてしまい彼らの存在すら消えてしまう。そうするとその存在すらも危ぶまれるのでは? 

メディアや教科書が当事者の様子を伝えるだけではいけない。ニュンは、当事者自らが経験を語ることが何より重要だと考えている。そうしてモノを受け取り整理するニュンの仕事は広がりをみせ、よりインタラクティブなものへと変化していった。

その後彼女は展示という形態を選び、他のキュレーターたちと協働で企画を催した。ハノイで2015年に行われた展示では、前年始めに始動した企画がいかに七転八倒したかという話を紙いっぱいに図にして説明してくれた。特定の展示物を取り除くように政府から指示があり従ったが展示をするために必要な政府からの許可証は下りなかった。そのため、多くのギャラリーなどをあたったが直前だったこともあり、展示スペースを貸してくれる団体は簡単には見つからなかった。やっと3日間だけ展示できる空間を見つけるもプロジェクトに参加していたキュレーターたちは展示を拒んでしまう。問題は参加した博物館や美術館職員が検閲の厳しい場で教育をうけ、その日常に生きていることにあった。そのためキュレーションに保守的だったのだ。しかしニュンにとって展示をすることこそが重要だったため、そこで屈するわけにはいかなかった。なんとか、人権問題改善に積極的なスウェーデンの大使館に助けを求め、規模は半減したが2時間だけ展示を行い、のちに内容をさらに調整し、ベトナム芸術大学で展示を行った。

2015年3月に行われたその展示は『The Cabinet』と題された。「展示タイトルは“クローゼット”ではなく、“キャビネット”なの」とニュンは、そこについても注意深く考えるようにと教えてくれた。

また、先日ノーマルスクリーンのイベントに参加してくれたグエン・コック・タインさんが主催するQueer Forever!というアートイベントにもニュンは参加している。そこではベトナムのクィアの人々の間で使われる(使われた)隠語をまとめた『Queer Lexicon』(語彙集)というzineのようなものを制作した。 

彼女のユニークな活動はまだまだ続く。
アメリカで始まり多くの国で上演されている『ヴァギナ・モノローグ』に影響を受けたプロジェクトでは、ヴァギナのイラストを性別とわず描いてもらい、それぞれのヴァギナにまつわる経験やイメージを文章で添えたものを集めている。できるだけ多くの人のストーリーを巻き込みたいという彼女の願いからだった。ヴァギナに新しい名前を与えてもいい。女性だけのものという考えを疑ってみてもいい。「話しにくいことはまず描いた方が話しやすくなるから」とアイデアの背景を説明してくれた。シンプルでありながら、人々が個人的な経験を語りやすくなる工夫とアイデアをどんどんと出していく点もさすがだ。

2015年9月からはトランスジェンダーの人々のストーリーの収集にも力を入れ、同時にHIV感染予防につても語る場を作っている。最近は、ハノイの年配の人と会話を重ね、セクシャルマイノリティが集った場所を調べている。そして、街のなかに点在した居場所のなかった人が追いやられたカフェや公園やハッテン場を地図にした。現在は無くなってしまった場所も多く紹介されるその地図は、彼らが生きた証であり、現在にも続くコミュニティまたはコミュニティがあったという記憶や感覚だという。

忠実さが要ではないそのインタラクティブな“記憶の地図”の試作品を触ったとき、ニュンがキュレーターやアーキヴィストという肩書きに違和感を示した理由がすこし分かったような気がした。クリエイティブに会話のきっかけをつくる彼女はアーティストのようだった。

会話は2016年6月27日、ハノイにて行われました。
Photos © Normal Screen


先陣切るzine、ホーチミンのVănguard

今年6月、バンコクとホーチミンとハノイを訪れ、各地でアーティストやキューレーターと面会した。

ホーチミンを訪れた際に、私の頭にあったキーワードはクィアコミュニティとアートコミュニティだ。この2つは、ノーマルスクリーンのコアとなるものであると同時に、ベトナムは社会主義国であり、その政治的抑圧により「表現」の制限の影響をもろにうけているからだ。

例えば、2013年、ハノイの薬品工場跡地に作家やクリエーターが自然発生的に集まり、制作をしたり、店を開いたり、パーティが行われた。Zone 9 と呼ばれ、セクシュアリティや育った環境を問わず、多くの人を惹きつけた。しかし、その様子が政府の目にとまり、60以上の団体が強制退去を命じられ、Zone 9 は年をこす前に閉鎖されてしまった。今でも、実験的な芸術関連のイベントは大きく告知されることはない。

インターネットをブラウズするだけでは片寄った情報が多く入り、ホーチミンの街を歩くだけでは明確に見ることのできない現状。それを少しでも肌で感じるために実際にギャラリー訪問をしたり、カフェにいるゲイやレズビアンの人々に話しかけることで状況を把握しようとした。

アートシーンで言えば、ホーチミンではThe Factoryという新たなアートスペースが注目を集めていた。4月にオープンしたばかりで、内部にはまだ完成していない箇所もありわくわくさせられる。街の中心から車で20分ほど離れたエリアにあり、その近くにはアーティストサポートやレジデンシープログラムなどで注目をあつめるSan Artという団体のビルもある。アーティストのディン・Q・レが創始者である同団体だが、政府の圧力により今まで8回にわたって行われてきたプログラム「San Art Laboratory」を今年一旦休止、事実上終了した。それでも団体は若手アーティストのサポートに尽力していた。今後の展開が気になるが、また彼らが政府に目をつけられないように慎重に応援する必要がある。一方、ゲイコミュニティはどうだろう。セクシャルマイノリティに関して「ハノイよりもオープン」といわれるホーチミン。繁華街には、“ゲイバー”と示されてこそいないものの、ゲイやレズビアンの人たちが多く集う週末のパーティやビールだけを出すカジュアルなバーやカフェもある。しかし「毎日ゲイ」の場所というのはハッテン場など以外少ないようだった。(ハノイにはゲイバーがあった)もちろん、Institute for Studies of Society, Economy and Environment (iSEE)やThe Consultation of Investment in Health Promotion (CIHP)のようなアクティブに活動する人権団体も存在する。しかし、アートとクィアの人々が交わる場所、クィアカルチャーやコミュニティは存在するのか?

ホーチミンでそれは、Zineという紙を通し存在、または姿を現そうとしていた。そのzineの名は『Vănguard』。パンクカルチャーに見られる(見られた)デザインが特徴的なこのzineの発起人エイデン・グエンにハノイ1区で人気のカフェ「i.d Cafe」で会うことができた。

エイデンはホーチミン生まれ、アメリカのボストン育ち。『Vănguard』は2014に始まった。ニューヨークの大学に在学する頃から年に1度3ヶ月ほど滞在し、数年を過ごした。美味しい食べ物、懐かしい友人や親戚に囲まれ、ホーチミンでの生活は魅力あふれていた。しかし、彼がもの足りないと感じ、ホーチミンにとっても必要だと感じたのは、ニューヨークで経験したようなクィア コミュニティだった。

クィア コミュニティ。その定義は様々ながら、ニューヨークには確実にレズビアンやゲイ、バイセクシャルやトランスジェンダーの人々による活動が活発にあった。お互いを支えあい、刺激しあう集まりやパーティー、身の危険を感じずに自らを表現できる場所。それがホーチミンのアーティストにも、そして自分にも必要だとエイデンは感じ、友人で写真家のタィン・マイと『Vănguard』をスタートした。近年、LGBTの権利がベトナム政府やメディアでも議論されるようになったとはいえ、実際にLGBTQのアーティストやライターが抑圧を感じず、継続的に、自分たちのために表現する場はほぼなかったのだ。

「ホーチミンではギャラリーやミュージアムに行くという習慣がほとんどの人にない、でもzineだったら街のどこでも誰にでも見られるチャンスがある」とzineという媒体の魅力をエイデンは語る。現在3号まで発行されている『Vănguard』。新しい号が発行される際にはパーティを催し、zineに参加したアーティストや読者や仲間が交流できる場をつくっている。映画やアートに対する検閲が厳しいベトナムだが、自費出版のzineのため検閲を通す必要はない。しかし、自由に表現がされる誌面が、行政に批判されればそれまでかもしれない。パーティでは表紙もコンテンツが見えないようにアルミホイルに包んで販売した。必然的に『Vănguard』はアンダーグラウンドカルチャーとなった。第3号ではクラウドファンディングを行い、スタッフも増え、その延長として現在では小さな映画祭も企画している。

i.d Cafeで甘いアイスコーヒーを飲み終えるころ、エイデンは『Vănguard』をプレゼントしてくれた。直接手に取り大喜びする私に彼が言った。
「表にでてきていないけど、セクシュアリティを見つめるアーティストはホーチミンにはまだまだたくさんいるよ」

エイデン・グエン。2016年6月、ハノイにて。Photo by Normal Screen.

エイデン・グエン。2016年6月、ハノイにて。Photo by Normal Screen.

ベトナムで見えた親密な時間。写真家マイカ・エランのピンクチョイス

2012年5月12日ホーチミン、Tsabelleにお気に入りの下着を少しだけ見せるKim Ngan。2人とも学生、付き合って4年になる。

2012年5月12日ホーチミン、Tsabelleにお気に入りの下着を少しだけ見せるKim Ngan。2人とも学生、付き合って4年になる。

6月にベトナムを訪れた際に、どうしても会いたかったのに不在の写真家がいました。ベトナムのレズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、バイセクシャルのカップルの親密な時間を捉えたシリーズ『The Pink Choice』を発表し、2013年の国際報道写真コンテスト「現代社会問題の部(組)」において最高位の賞を獲得したマイカ・エランさん(以下 親しみを込めてマイカ)です。

ハノイで人気のカフェバーTadiotoに飾られた彼女の大きな作品を眺めながら、私が思った先は日本。なんと彼女は国際交流基金アジアセンターのフェローとして千葉県に6ヶ月滞在していたのです(!)。彼女がハノイに帰る日も近づいた8月の終わり、直接会い『The Pink Choice』のインスピレーションや制作過程のエピソードを聞きました。

「ハノイの人も街も大好き」と自らが育った地について語るマイカ。同地の大学で社会学を学び、現在は2歳のこどもを育てながら制作を続けています。
大学を卒業後、彼女は熱心に写真を撮るかたわら、雑誌のフォトエディターとしても活躍していました。そしてある時、カンボジアのアンコール・フォト・フェスティバル&ワークショップに参加しました。その経験が『The Pink Choice』を制作するきっかけになったのです。

そのワークショップでカンボジアのホテルを撮影することにしたマイカ。被写体を見つけるためにリサーチをするなかで、ピンクチョイスというゲイの旅行者向けのウェブサイトを発見しました。滞在先にゲイの観光客向けのホテルがあることを知った彼女は、限られた時間のなか迷う余裕もなく、早速ホテルを訪ね緊張しながらも撮影可能な滞在者を探しました。「部屋が大きくバルコニーがあるからと迎え入れ、ポーズをとり撮影させてくれたカップルがいました。」

2011年、ハノイに戻った彼女は、ゲイやレズビアンを題材にした写真展に訪れる機会がありました。その展示についてこう語ります。「そこで見た作品に良い印象を受けませんでした。被写体が仮面をつけていたり、体の一部だけが写され、ちゃんと顔が見えるものがありませんでした。本名がわかるものもありませんでした。その展示は人権団体によるものでしたが、皮肉にも同性愛者のステレオタイプを助長しているようでした。」

「テレビをつけても、不幸なストーリーや極端なイメージが多く暗いニュースばかりで、もっと日常的な姿を知ることも大事だと思いました。」彼女は自分が想像していた以上に多くの人がゲイやレズビアンの人々に嫌悪や誤解を持っていることも知りました。良い表象もあるけど、まだまだ足りない。そう感じたマイカはリサーチを始め、この主題で撮影を開始をすることを決意します。「人々は同性愛者に寛大になりつつあります。しかし、理解のあるふりをしているだけの人も多い。私の友人にもカップルを見ると拒否反応を表す人が少なくありませんでした。そこでカップルのプライベートな時間を撮影することを決めました。」
ベトナムでは同性カップルの同棲や、同性の結婚式も2015年まで違法とされていました。(現在も合法になったわけではない)

カップルが人の目を気にしないリアルな姿を撮りたい。
そう考えたマイカは、主にそれぞれの自宅を訪ね、まず6ヶ月間ハノイでカップルを撮影し、それからホーチミンでも撮影。被写体となってくれた人たちや人権団体が友達に連絡してくれました。地方でも撮影し、制作は2年に及びました。後半には彼女のプロジェクトの噂は広がり、被写体のほうから連絡をくれたと言います。「カミングアウトのいい機会だという理由で撮影を希望する人が多くいました。このシリーズが展示されるその場所に親を連れて行けば、同時に他の人たちとのコミュニティを知ってもらえる、と。また、いい思い出になるというカップルが大多数でしたが、ある地方では、7年以上連れ添ったパートナーが “ストレート”になって結婚するため別れるので、その前に写真を撮ってほしいと言ってきた人もいました。」

それぞれの親密な時間を撮影するために、まずカメラなしでカップルと会い何度か時間をともに過ごしてから撮影したそうです。そうして時間をかけて撮影されたカップルは計75組、そこから31枚を選び完成としました。申請料が無料だったからという軽い気持ちで応募した国際報道写真コンテスト。同年にはプライドフォトアワードなども受賞、国内外のプライドイベントや写真展、メディアでも紹介されました。

2011年7月12日、ハノイの自宅でくつろぐVu Trong Hung(政府の検査官)とTran Van Tin(社会福祉士)。交際を始めて2年が経つ。

2011年7月12日、ハノイの自宅でくつろぐVu Trong Hung(政府の検査官)とTran Van Tin(社会福祉士)。交際を始めて2年が経つ。

「あれがもし2年早かったら、ベトナムでは少し早すぎて撮影も困難だったかもしれない。これが今だったらよくあるトピックだと気に止められなかったかもしれない。だからタイミングも良かったと思います。」と、謙虚なマイカ。しかし、彼女の言う通り、ベトナム政府はトランスジェンダー、レズビアン、ゲイの人々を取り巻く状況改善のために動き始め、状況は急速に変化しているようです。

さて、そんなマイカが家族とともに千葉に滞在していた理由。それは「ひきこもり」についての新プロジェクトに取り組んでいるからです。同じようなことが世界中であるにしろ、それを表す言葉があるのは日本らしいとのこと。「6ヶ月の滞在では時間が足りなかったのでまた来日したいと思っています。」

優しいオーラに包まれたマイカは、社会学的視点で世の中を見つめ、忍耐強く被写体と向かい合います。会話のなかで、彼女はカメラを使うドキュメンタリストであり、独自の視点をかたちにするアーティストであることを実感させられました。彼女だから受け入れられる場所、彼女だから見える瞬間でありながら、それらは誰とも強い関係のある空間なのかもしれません。

 

この記事の写真は全てマイカ・エランの『The Pink Choice』より。Copyright: Maika Elan
写真の使用を承諾してくれた作家に感謝します。

他計31枚の作品は、マイカ・エランのウェブサイト で鑑賞可能です。ぜひご覧ください。
>>> http://maikaelan.com

 

 

 

ばたつく青春 『どこでもないところで羽ばたいて』監督グエン・ホアン・ディエップ インタビュー

9月15日からに行われるアジアフォーカス・福岡国際映画祭2016の「ベトナム大特集」で長編映画『どこでもないところで羽ばたいて』が上映されます。

映画はハノイの大学に通う女性フエンが、妊娠してしまうところから始まります。彼氏の気持ちも経済力も不確かなため、フエンは中絶を考えます。しかし、その資金はなく、さらなる行動を迫まられます。不安に押しつぶされそうな日々のなか、不思議な年上の人、たくましく生きる友人に触れフエンは成長するように見えますが...。「羽ばたく」というよりは、まさに飛べない鳥の「flapping」:バタバタとするフエンの姿が、深みのあるトーンで描かれます。

ベニスで初公開され、トロント、釜山、日本ではあいち国際女性映画祭や大阪アジアン映画祭でも上映されたグエン・ホアン・ディエップ監督の長編デビュー作。その制作過程における苦労や運命的なめぐりあわせについてハノイで聞きました。
(以下、ネタバレありです。)


見ごたえのある俳優が出演していますね。若い俳優のキャリアを考えると、主人公フエンはリスキーな役柄であると思います。フエンを演じたグエン・トゥイを見つけるのに苦労したのでは?
面白いことに、私は彼女が13歳のときに一緒に仕事をしています。私が監督をしていたテレビドラマで、彼女は主役でした。それがきっかけで彼女はとても有名になりました。当時彼女は子供だったので家族とも話し、学業に専念するように勧めました。随分前のことですが、後にこの映画のプロジェクトが始まり、ベトナム中でオーディションをしました。私は役のイメージに合った彼女を思い出しました。しかし、まだ15~16歳の彼女では若すぎると感じました。このキャラクターは自らを壊してしまうほど重いものを抱えています。ということはこのキャラクターは俳優をもダメにしてしまう可能性がある。なので私は彼女を呼んで脚本の朗読を手伝ってもらうだけにしました。実際に演じるというものではありませんし彼女もそれをわかっていました。しかし、その時には資金の問題で撮影はできず、それから2年近く待たなくてはなりませんでした。そして2013年、撮影開始が二週間後と迫ったときです。主人公を演じる予定だった女優がパーソナルライフに問題があり、セクシャルなシーンに関して突然、不安と不快を感じると言い出しました。このとき、私たちはすでにこの女優と2年間準備をしていました。

怖気付いたということですか?
理解はできます。だれでもこういう役には不安を感じるはずです。しかし、これは私の初長編だったこともありやることも多く、この女優の問題にあまり時間を費やせませんでした。丸1日彼女と話しましたが、彼女の問題は家族を巻き込んだものと分かり、彼女を主役にはできないと思いました。そして長時間に及んだ会話を止め、気づいたときにはグエン・トゥイ(監督の発音ではトゥエン)に電話をしていました。そして言いました「私にとってとても重要な映画があって撮影が2週間後に開始するけど、参加する気持ちはある?もしスケジュールがあいていれ早速とりかかるわよ」と。彼女は驚き私もびっくりしていました。自分が彼女のことを長い間考えていたことにそのとき気づいたからです。

始めから彼女が念頭にいたのですね。
そういうことですね。それに資金集めに時間がかかり気がつけば彼女は18歳近くなっていました。もう小さなこどもではありません。彼女に脚本を送り、2年前に初めてこの脚本を読んだのは朗読を手伝ってくれたのも彼女だったと気づきました。しかも彼女はセリフを覚えていました。撮影クルーと私にとってももうひとつ特別だったのは、私たちは彼女が小さい頃にドラマで一緒に働いていたことです。撮影監督も美術監督も衣装さんもメイクさんもみんな当時のままで、彼女が私たちのもとへ帰ってきたようで感慨深くなりました。ロケーションで撮影テストをした際には、私が求めていたものを感じ、遠くへ行ったいた娘が成長して、美しく強くなって帰ってきたよううでした。誰も女優を代えた理由は聞かず、とても自然に受け入れられました。うまく説明できないけど彼女は勘に優れ、才能と魔法を持っているのです。演技を心配したこともない。実際には演技のクラスも受けたことがないし、モールに行ってシネコンで映画を観るようなベトナムの今時の子です。映画祭やアートにも無関心。典型的なハノイの女の子なのです。大学では経済を専攻し、演技と全く関係のないことをしています。

オーディションを経て感じたベトナムの若い俳優の今について教えて下さい。
ベトナムの若い俳優は優れていて好きですが... 私は自分の映画にはニューフェイスを起用したいと思っています。主人公が新人で観客が驚くくらいがいいのですトゥイは新人というわけではないけど、テレビドラマのときとは別人です。それに私も驚いたくらいなので誰にでも衝撃を与えると思いました。一方、今の若い俳優はキレイすぎるとも感じています。それぞれの美があるはずですが同じように見えます。例えば、ある俳優が印象的だと感じ候補者にあげます。それからオーディションを続けると、みんなその子と同じメイクと髪型をしていることに気づきました。流行りなのかもしれないので、それはそれでいい。役に合わせて変えればいい。でも、自然の美をもった子がいるのになぜ誰かを変える必要があるのかと考え、後者を探し、見つけました。もう一つは、今の若い世代にはテレビ、映画、舞台などに参加する機会が多くあるので、経験もあります。でもそのスキルはポップカルチャー的で、例えば、みな同じように泣くのです。もちろん全員ではないですが... もっとも受け付けられなかったのは韓流スタイルの演技です。タイっぽいのもありました。別にいいのですが、そのスタイルを変えようとも思いません。演技の勘があり、私を涙させ笑わせ驚かせるほどの才能がいるからです。またベトナム大学の学生の演技は古いスタイルが多く、わざとらしい部分もあります。私は自然で、かつ魅力的な子を探していました。

本作はベトナムでは配給されていますが、反応はどうでしたか? 
ポジティブだったと思います。でも関係者には、この映画で収益をあげるのは難しいと言われていました。しかし、若い観客がたくさん来てくれました。この映画は若い人のためにあるのかもしれません。でも発表する前は若い観客はイメージできていませんでした。なぜなら、若い人の多くはロッテなど韓国資本のシネコンに行きハリウッドや韓国映画を観ますよね。でもある日、劇場を見に行くと若い人で満席でチケットを買うために3時間以上並んでいる人もいました。すごくびっくりしました。

こういう映画が求められていたのでしょうか?
ベトナムの劇場をまわり、映画を上映してもらうように話しましたが、映画はいいけど大衆には受けないと断られました。その反応も理解できます。だから私はインデペンデントの配給の道を選び実行しました。今は堂々とベトナムのインデペンデント映画の配給についても知っていると言えます。

やはり大変でしたか?
大変だと思うと大変です。経験もなく、売るためではなく人々に観てもらうために頑張ったのでやりがいがあった。でも次のプロジェクトでは逆に、配給を真剣なビジネスとしてできる、私の映画が好きな人と組むのもいいかもしれません。

劇中、トランスジェンダーのキャラクター、リンが登場しますね。劇中でリンはまるで厳しい現実を直視している唯一の存在のようにも見えます。これには特別な理由があるのでしょうか?
2004年か2005年にトランスジェンダーの人々についてのテレビドキュメンタリーを制作しました。ホーチミンに向かい、被写体を見つけ撮影を開始ました。こういったトピックをテレビのドキュメンタリーで扱ったのは初めてだったと思います。そのとき、トランスの人々に刺激をうけ、自分が長編フィクションの映画を作るときにはトランスのキャラクターを書くと決めました。彼らに会えたことに感謝しています。彼らはとても個性的で、喜びや才能であふれています。同時に、彼らは深い悲しみを抱え、悲観的でもありました。彼らのことが大好きでした。私の映画のなかのリンはその時の記憶からできていると思います。それにリンは男と女どちらかだけというよりは両方です。私はリンの性別を明言できません。ただ、リンなのです。名前も性別をはっきり持ったものではありません。ただの名前です。

劇中の象徴的なものも印象的です。丸みのある形や水や、内と外を表すものも頻繁に登場していたように思います。
私はこの映画を女性の物語として構想しています、女性の世界です。ですので、色や形、文化的な象徴、ベトナムの女性文化を取り入れようと努力しました。私のうちにある女性性は冷たく、水です。太陽はなく、とがってもいません。丸みのあるものです。そして雨が降り、晴れていません。月の光る夜で昼ではありません。そこから、主人公の世界を求めロケーションを探しました。泡や色や濡れた感覚、雨や水です。時折、電車などまっすぐで硬いものも現れるので、余計に丸みのある街灯やお椀、雨も多いのです。

映画はヨーロッパからの資金も受けていますが それはやはり国内に充分な資金調達ができなかったからでしょうか?
状況によってちがうのですが、今回は他に術がなかったからです。今は違うかもしれません。脚本を書き始めた2009年ごろマーケットで出資者を見つけるために時間をかけました。時間はかかったけどそれも変えられない運命です。次ははそんなに時間をかけたくはないですが。5年は長すぎます(笑)ベトナムでは映画やアートへの助成はなく、しかも私は資本から離れてインデペンデントで活動しています。国営のスタジオや大手のスタジオにも声をかけませんでした。彼らからはなにも期待できなかったので国外に行くしかなかった。ひとつ気になることで言っておきたいことですが、ベトナム国内に、私が国外だけをターゲットにしていると誤解している人がいることです。アジア人の監督として欧米で求められるもの(セクシャルなイメージやエキゾチックなイメージなど)を意識しているというのです。傷つきました。今の私は以前よりもタフになったので大丈夫ですが、そのときはとても辛かった。映画祭のことを考えながら脚本を書くことなんてありません!資金を得るために脚本を調整することもありません。資金が必要だったら他の方法があるし、もし支援者が現れればそれは私たちが理解し合えたからです。お金目当てではないし、そういう共同製作は嫌いです。客層を意識して脚本を書くこともありません。ビジネスを否定しているのではないけど、私のやることではないということです。明日死ぬかもしれないのに、映画祭や支援者を意識しながら脚本を書くなんて考えられません。

 

映画プログラマーの Marcus Cuong Vuとグエン・ホアン・ディエップ監督。2016年6月にハノイにて。Photo by Normal Screen.

映画プログラマーのMarcus Cuong Vuとグエン・ホアン・ディエップ監督。2016年6月にハノイにて。Photo by Normal Screen.

『どこでもないところで羽ばたいて』2014年/ベトナム・仏・ノルウェー・独/98分
原題:Đập cánh giữa không trung/ 英題:Flapping in the Middle of Nowhere