Taro Masushio | RUMOR HAS IT

増塩太朗
Rumor Has It


Courtesy of the artist and Empty Gallery|無断転載禁止

展示風景(Empty Gallery|2020年12月|香港)
▶︎ https://emptygallery.com/exhibitions/eg20/

映像作品 公開期間:2021年6月14〜6月21日

こちらの映像作品をご覧になりたい方は、
下のリンク先より登録をしてパスワードを受け取ってください。
https://rumor.peatix.com/

Taro Masushio, Untitled 27, 2020 HD video, 25分42秒
増塩は日本で得たヴィンテージのホモエロチカのフィルムを自身のスタジオで投影し、それを撮影。この映像は、暗い部屋で鑑賞するとより堪能できる。

Taro Masushio, Untitled 28, 2020 HD video, 14分41秒
“大阪のおっちゃん”の生きた街を増塩が訪れ撮影した作品。ナレーションは、薔薇族の編集者、藤田竜が1971年に書いた2つの文章をもとにしている。旅の記録のようでもあるこの映像は、円谷が住んでいたかもしれない部屋をうつし彼の面影を探すようでもある。

 
 

Empty Gallery(香港)によるテキスト全訳:

Empty Galleryでは、ニューヨーク在住のアーティスト、増塩太朗初の個展「Rumor Has It」を開催します。増塩のコンセプチュアルな制作活動は、散文、ビデオ、ドローイング、彫刻を含み、それらの関係性の中で写真を命題を提案するものや思索的な装置として位置づけています。彼は写真媒体を現実の記録として使用するのではなく、イメージの許容性を調査し、私たち自身の知覚を操作することで、それを無限に拡張します。つまり、多元的な可能性を内包した世界の追求のために、時間、空間そして感情の領域を変幻自在に彫刻することで、それらを作品において機能させると言えます。

「Rumor Has It」を構成する作品群は、増塩が埼玉のマンションの一室に保管されていた特異なホモエロチカのアーカイブと運命的に出会ったことに端を発しています。そこは貴重なネガフィルムやファイルの宝庫であり、名も無き少年たちが集う虚ろな欲望の貯蔵庫でした。それに魅了された増塩は、レンズの後ろにいた円谷という人物を発見します。本展は、「大阪のおっちゃん」として知られる円谷順一(1916-1971)の長い間、謎に包まれていた事柄を中心に、写真、ビデオ、そして一つのモノリス状の彫刻で構成されています。円谷は、父であり、夫であり、写真ラボの技術者であり、その他にも様々な顔を持っていましたが、日本でホモエロティックな写真を撮影した初期の写真家の一人でした。彼はフットワークの軽い写真家で、衝動に駆られて2000人もの男性の裸体を撮影し、個人的な欲望のアトラスを作成した人物なのです。増塩は、今は歴史となったこの人物の謎を解き明かそうとするのではなく、彼の人生と仕事を儀式的になぞる(あるいは繰り返す)ことで、ある可能性という円谷の亡霊を出現させます。そしてそれは、彼自身の身体という変化し続ける媒体を通して行われます。

この方法は増塩の、円谷のアーカイヴ写真を再撮影した写真を一枚ごとに詳細に黒鉛でなぞり、一連にドローイング化するというシリーズに顕著に見られるます。この濃密な(再)創造の行為によって、写真のネガだけでなく、遠い過去に円谷の網膜の表面(つまり円谷の細胞の化学反応の中)に刻まれた反射光が、増塩自身の神経系や筋繊維を通り、温度や組成の変化していく様子が想像されます。原画に対するある種の中立性とリアリズムへの忠実さへの徹底したこだわりは、二人の“俳優”の間にある埋めようのない空間、つまり思考によってのみクリアできる溝という、本質的な乖離を浮き彫りにしています。このようにして生まれた作品は、絶妙なパリンプセストであり、時間を超えたハイブリッドで重なり合う存在から発せられるものなのです。エンヤ-マスシオ/マスシオ-エンヤ、のように。

この二重化のプロセスは、本展の他の作品にも見ることができます。一連の静物画は、現実と想像の両方で、はかないものや出合いのあったものを記録しています。あるものは、増塩が円谷のいた街を“巡礼”して集めたもので、半ば記憶に頼った逸話や住所を携えて、かつて円谷が住んでいた空間に自分の存在を重ねようとしたものです。一方、あるものは、生のほんの一瞬を占めていたかもしれないと想起させる家庭内の小道具で、純粋なフィクションと言えます。文脈を排除されたこのような粗末でありふれたも日用品は、本展で最も過激に露出した、つまりエロティックなイメージの一部です。安価な石鹸、サッポロビールの空き瓶、ボールの中の玉子ガニなど... 一見シンプルでどこでも買えるようなものには、潜在的な意味の集合が隠されています。それらは、円谷が過ごした昭和の物質的文化のフィクショナルな記録であると同時に、写真という媒体に対する内在的な視線による解釈であり、淫靡な内輪ネタのようでもあります。形象化を避けながらも、不在の身体のリズム、強迫観念、必然性へのある種の接近や親近感を暗示しています。

もうひとつのシリーズは、朝顔を描いたものです。“朝顔を育てる”ということは、日本の小学生にある種の国民性や美徳を教える道具としても使われています。増塩の他の静物画と同様に、被写体の文化的な普遍性や一見したところの白々しさは、他の潜在的な意味のカモフラージュとして機能しています。朝顔は日中に開花し、夜になるとしっかりとつぼみを閉じますが、増塩はこの花のサイクルの後半を撮影していて、我々にこれらの閉じた花の内部に発生する目に見えない運動を仮想・先見させ、閉じた個体それぞれが能動性を持つポテンシャルとして形成されます。この密閉された蕾(つぼみ)は、社会的な役割を果たすために体現された時間という考えと、同時に、私的な世界の維持という考えの両方、そして、円谷自身だけでなく、リビドーの経済的な流れと存在様式全体を示唆しています。この花をこっそり覗き込み、その夜の微細な動きを注意深く捉えることで、増塩は存在と不在、隠すことと明かすこと、表現と解除というふしだらな弁証法へと目を向け、視線やしぐさや見方といった単純なものによって、宇宙の発端が至る所に隠されていることを我々に気づかせるのです。

Empty Gallery | 2020年12月23日〜  2021年3月20日

Taro Masushio
増塩太朗はニューヨーク在住の作家。カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)にて学士号を、ニューヨーク大学で修士号を取得、カーラ・ブルーニ・サルコジ財団より奨学金を受け、パリ第1パンテオン・ソルボンヌ大学で1年間を過ごす。現在、UCバークレーで講師を務める。増塩の制作は肉体的な性や性行為などの経験や歴史・個人史を素材として媒介する傍で、アートにおいての突飛であり直感的な物理世界の創造、つまり時間や空間の在り方とその意識の可能性を提示する。近年はEmpty Gallery(香港)、 47 Canal(ニューヨーク)、 Capsule Shanghaiなどで展示。また執筆も行なっておりArtforumやArtAsiaPacificに寄稿している。

 
 

\ 作品公開記念トーク /

増塩太朗(作家) x 潟見陽(loneliness books

2021年6月18日 午後10時より生配信

*配信URLおよび記録映像は、下記Peatixページ(映像パスワード所得のページと同じ)で登録された方にお送りします。
https://rumor.peatix.com/

研究や調査のために、トークの映像を観たい方は、normalscreen @ g mail . com まで連絡ください。

・このページは、香港のEmpty Galleryで2020年12月23日〜2021年3月20日に行われた展示をノーマルスクリーン(本ページ)で公開のために作家が特別に再構成したものです。
イベントページはこちら:http://normalscreen.org/events/rumorhasit


主催:ノーマルスクリーン
協力:Empty Gallery
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京

 
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NYの『レズビアン歴史アーカイブ』を通して、改めて考える「アーカイブ」とは?

自分たちで残していかないとどんどん失われてしまうのが、マイノリティの歴史的な史料。
ただ、アーカイブを残さなければと思っても、想像するだけでも途方もない作業量に圧倒されて、呆然としてしまうこともある。
2月13日に開催されたオンラインイベント「ニューヨークのレズビアンアーカイヴ探究!」は、米ニューヨークの『レズビアン ハストリー アーカイブ』を取り上げた短編ドキュメンタリー2本をもとに、同志社大学准教授の菅野優香さんと写真家の間部百合さんと一緒に話し合う機会となった。
今回は、そのイベントの模様をレポートしつつ、「アーカイブとは何か?」について改めて考えたい。

アーカイブで周縁化されがちなマイノリティ

「アーカイブ」という言葉から、どんなものを思い浮かべるだろうか。
きっちりと棚に整理されたたくさんの資料や、カテゴリーごとに分類されたデジタルコンテンツとか?
教科書に載るような、あるいは図書館に集められるような歴史的な史料とか?
辞書によると、アーカイブとは「公文書。古文書。また特に公共性が高く、のちに歴史的重要性をもち得る記録や資料を、まとめて保存・管理する施設や機関および事業のこと」(デジタル大辞泉)となっている。

アーカイブを作る場合、どんなものを集めるかや、その中でも何を重要とするか、それらをどう分類するかといった点に、作る側の思想や意図が入り込むことは避けられない。
アーカイブを作るのは、たいてい主流派、権力のある側だ。
その結果、作る側に選ばれたものが重要とされ、その他のものは必然的に周縁化されてしまう。

2月13日に開催されたオンラインイベント「ニューヨークのレズビアンアーカイヴ探究!」は、LGBTQのアーカイブについて考える特集の一つとして企画されたもの。
ここで取り上げられたのは、レズビアンに関する最古で最大のアーカイブと言われている、ニューヨークの『レズビアン ハストリー アーカイブ(Lesbian Herstory Archives)』。
ちなみに、Herstoryとは「ヒストリー(His story=男の歴史)」から「ハストリー(Her story=女の歴史)」へ、という言葉遊びから付けられたそう。

今回のイベントの参加者には事前に、メガン・ロスマン監督による短編ドキュメンタリー『レズビアン ハストリー アーカイブ:その歩みを振り返る』と『ラブレター レスキュー隊』(いずれも2016年)がシェアされていた。
そして、イベントの前半は、2018~2019年にニューヨークに滞在し、LHAを何度も訪れ調査したという、映像が専門の同志社大学准教授、菅野優香さんによるレクチャーからスタート。

アパートの1室に収集することから始まった

LHAは1973年に、ニューヨーク市立大学に関係する人たちが作った『ゲイ・アカデミック・ユニオン』を脱退したレズビアンたちによって始まったという。
最初の1~2年は集まってただ話をしていたが、そのうちに「自分たちのコレクションを始めよう。手始めに、今あるものを1カ所に集めよう」ということに。
初めは、なんとメンバーが住むアパートの1室(キッチン裏の空き部屋)に資料を集め、ニューズレターを発行するところから始めたのだそう。
「アーカイブ」というと、つい「スペースは? 家賃は?」などと現実的な問題を考えてしまいがちだが、形から入ろうとするのではなく、「できることから始める」ことの大切さを痛感させられる。

やがて、アパートの他の部屋もアーカイブの史料で侵食され始めて、アーカイブ専用の家を探すことに。
コミュニティからの寄付で建物を購入し、ニューヨークのアッパーウエストから、1992年にブルックリンに移転して、それから30年経った現在もまだ同じ場所で続いている。

LHAの組織や空間の特徴の一つとして、公的なサポートを受けず、ボランティア運営していることがある。
「国や自治体の補助を受けると、さまざまな規制や政治的な影響を受けてしまうというリスクがあるからです。
現在は、最低5~20人のボランティアが常にいて、仕事をしています。
同じ理由で、商業主義には与せず、ゲイプライドには参加しないのだそうです」
と菅野さん。

また、「アーカイブ」と言っても、史料目的の人だけでなく、誰が来ても歓迎するコミュニティスペースとしても運営されている。
空間自体が居心地のよさを意識して作られており、朗読会などのイベントも行われているそう。
映像の中にも、本好きの友達の家に来たかのような、アットホームな室内のようすが映し出されていた。


寄贈はすべて受け入れる包括的なアーカイブ

さらに特徴的なのが、そのアーカイブの内容や方法だ。
具体的にどんなものが集められているかと言うと、未出版論文、短編小説、詩、書籍、定期刊行物、アート、スライド、写真、グラフィック、音声・映像テープ、横断幕、楽譜、バッジ、衣服、原稿、日記、手紙などなど。
大学の図書館では扱われないような、バーの歴史や、1950~60年代の「レズビアン・パルプ」と呼ばれる大衆向けの安価な雑誌、ラブレターや恋人との写真などもある。
驚くのが、寄贈されたものはすべて無条件に受け入れていること。
そこには、「何を入れて、何を入れないかを取捨選択しない」という明確な意図がある。
スペース的な問題や、分類作業を考えても、これは簡単なことではない。


「彼女たちは『バージニア・ウルフとレズビアン・パルプの作家、どちらが偉いということは全然ない』という態度。
ロールモデルは作らず、どんな人も等しく重要なものとして扱っているんです。
工場労働者やブッチ・フェム・コミュニティ、セックスワーカー、セックスパフォーマーの生活に関する記録なども積極的に集めていましたね」
と菅野さんは話す。
映像の中でも、
「『ナチのレズビアンのものでも受け入れるか?』と聞かれたら、YESと答える。
そうしないと、歴史を文字通り“ホワイトウォッシュ”することになってしまうから」
と、創設メンバーの一人であるデボラ・エデルさんが答えていた。

アーカイブすることは歴史を取り戻す運動

自分たちが歴史の中で周縁化されてきたからこそ、誰も排除せず等しく扱う。
この「整理されていなさ」こそが、彼女たちのラディカルさなのだ。
「アーカイブをすることは、街頭でのデモにも等しいアクティビズムです」とデボラさんは映像の中で話している。
「アーカイブは、コミュニティが自らの歴史を取り戻す運動なのです」

また、分類システムも独自のものを作っている。
例えば、家父長的な分類法である苗字ではなく名前で分類する、史料に序列をつけない、レズビアン自身が管理する、など。
ここにも、権力の影響は受けない、誰のことも排除しないという徹底した姿勢がうかがえる。

その一方で、プライバシーの問題があるのも事実だ。
史料の持ち込みの際には、本人に一筆書いてもらうシステムになっているようだが、本人が亡くなった後、家族たちから「破棄してくれ」と言われることも。
その場合も、本人の意思を最優先とし、家族を粘り強く説得するのだそう。
本人からも家族からも、証拠隠滅として廃棄されがちな史料だからこその苦労も、計り知れない。

できる人ができることから始めることが大事

イベント当日は、Zoomのチャット機能を通じて、「日本では何ができるだろう?」という話が出た。
「コミュニティのアーカイブとして、信頼できるものがあれば、寄贈したいという人はいるのではないか」
「高齢になって施設に入るときに始末してしまう当事者がいるかもしれないと思うと、早急に作る必要があるのでは?」
「やりとりがデジタル化していく中で、今後どうやって保存していくのがいいか」
「今は『レズビアン』と名乗る人が減っているが、アーカイブの対象をどこで区切るのがいいか」
「障がいのある人のものをどう集めるか。障がい者のアクセシビリティの問題をどう解決するか」
などなど、さまざまな角度からのコメントが飛び交った。
また、参加者それぞれがアーカイブしているものの話も刺激的だった。

Manuscripts and Archives Division, The New York Public Library. "Miscellaneous political buttons" The New York Public Library Digital Collections. 1960 - 1989.

Manuscripts and Archives Division, The New York Public Library. "Miscellaneous political buttons" The New York Public Library Digital Collections. 1960 - 1989.

 

「サンフランシスコのLGBTアーカイブは、北カリフォルニアの人からの寄贈だけを受け付けるという区切りを持っているそうです。
というのも、他にも地域ごとのアーカイブがあって、それぞれネットワークを持っていて、例えば雑誌の何号とか抜けているものを補い合ったりしているそうで、それっていいなと思いました」
と、ノーマルスクリーンの祥さんが言うと、
「いろんなところで同時多発的にたくさんやるのがいい。1カ所に集めると、災害とかがあったら全部ダメになってしまうし。リスクを分散していろんなところでやるのがいいですよね」
と菅野さん。

アーカイブを作ることの難しさはいろいろある。
その一方で、とにかく始めないと、史料がどんどん失われていってしまうのも事実。
物を集約しようすると大変だが、まずは誰が何を持っているのかのリストを作るとか、とりあえずアーカイブの連絡先があるだけでもいいのかもしれない。
こうして、みんなで話をしているだけでも、アーカイブの夢は広がっていく。
クリエイティブなマインドを持って、楽しみながらアーカイブについて考え、作っていこう。
そんなふうに思わせてくれた、刺激的な時間だった。

TEXT: SAYA YAMAGA

イベント概要:http://normalscreen.org/events/lha


↑ イベント当日の様子(2021/2/13)
配信のために東京では、黒鳥福祉センターに場所の提供をいただきました。ありがとうございました!


・編集のミスで、本文の一部がぬけていました。お詫びいたします。(2021年7月10日午前 修正)
ぬけていたのは、「菅野優香さんによるレクチャーからスタート。」と「やがて、アパートの他の〜」の間の「アパートの1室に収集することから始まった」の箇所です。

あの頃、ソウルで出会ったあの映画、あの人。

クィアの人々にとっての歴史を考えるきっかけをくれる映画を紹介してきましたが、ここでは、本企画のために韓国文化や歴史に詳しい植田祐介さんに書いてもらった文章を公開します。ある日本出身のゲイ男性の個人的な視点から、過去20〜30年ほどの韓国のLGBTQ事情を想像させてくれる体験をシェアしてもらいました。韓国と日本を行き来しながら変化していった、筆者と韓国の様子を想像してみてください。


 

タブーの映画を上映する、韓国の「地下上映」

90年代の韓国は地下だらけだった。いざというときに防空壕の役割を果たすという地下道(朝鮮戦争はあくまでも休戦状態で、今に至るまで準戦時下にある)、市場よりはオシャレだけどデパートほどでもないそこそこの服で溢れる地下街、深夜営業禁止令をガン無視してヤミ営業をし、警察官の集団の来襲に、裏から路地へとつながるにじり口から出されたゲイクラブも地下にあった。

イケメンとまぐわっていた最中に警察官がやって来て、室内を一瞥した後、オーナーと何らかのやり取り(おそらくワイロ)をして出ていく一部始終を、喘ぎながらぼんやりと見ていたのも、最高級のホテル新羅(シルラ)のそばにあった、ボロ屋の地下のハッテン場だった。

そして、韓国であの時代を過ごした人なら一度は体験したであろう地下上映だ。

とは言っても、今は亡きあべの文化劇場(大阪市の阿倍野共同ビルの地下にあり、東映系の映画を上映していた映画館。ローカルすぎてすいません)のように文字通り地下にあった訳ではない。政府が見せてはならないとする映像を密かに見せてくれるイベントのようなもので、大学のキャンパス周辺に貼られた貼り紙や友人からの口コミ、そして最盛期だったパソコン通信ででその存在を知った。

映画『1987、ある闘いの真実』には、キム・テリ扮するヒロインのヨニが、カン・ドンウォン扮するイ・ハンニョルから映画の上映会に誘われ、何の気なしに見に行ったら、軍事政権下のメディアでは報道できなかった、1980年光州民主化運動の真実に関するビデオだったというシーンが登場する。が、民主化後しばらく経った90年代中盤以降の韓国では、そんな「ガチのタブー」ではなく、もはや有名無実化した「建前のタブー」を上映する場所だった。

最も一般的だったのは、日本の映画、特にアニメだったように覚えている。テレビでは韓国語に吹き替えられ、登場人物の名前も地名も韓国風に変えられた上で放送されていたものの、日本のアニメ映画の放送、上映は90年代の最末期まで禁止され続けていた。そんな中で、生の日本のアニメに接することができたのが地下上映だった。実は『となりのトトロ』を初めてみたのは、ソウルの学生街シンチョンの外れにある、地下のカフェでのことだ。

抗議の末、上映された不完全な『ブエノスアイレス』

当時、カルト的な人気を集めたのは、日本のアニメではない。ウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』だ。1997年の朝鮮日報にこのような記事がある。


『ブエノスアイレス』公倫’輸入不可’判定
朝鮮日報1997年7月17日

ウォン・カーウァイ監督の新作『ブエノスアイレス』が公演倫理委員会の輸入審議で、不合格判定を受け国内でのロードショーが困難になった。(中略)公倫は再審結果を通報し、不合格理由を「同性愛がテーマでわが国の情緒(国民感情)に反する」と明らかにした。しかし『プリースト』『クライング・ゲーム』『ウェディング・バンケット』など、同性愛を

扱った映画が既に上映されており、審議義務原則性をめぐり、映画関係者は批判の声を高めている。(以下略)

韓国国内はもちろん、ウォン・カーウァイ監督や主演のトニー・レオンからも抗議の声が上がり、同年9月の釜山国際映画祭で上映されることになったが、それに対しても異論が示され、メディア、映画関係者に限っての上映となった。映画館での上映にこぎつけたのは翌年8月。それも、オーラルセックスのシーンなど4分間を削除した上でのことだった。

僕は完全版を見るために、シンチョンで行われた地下上映の場所に向かった。だが、場所が文字通りの地下だったこと以外、何も思い出せない。ストーリーそのものより、見られたという事実に興奮しすぎたせいなのかもしれない。日本に一時帰国すればいくらでも見られるものだったが、LCCがなかった当時、今ほどは気軽に行き来できなかったのだ。

他にも数え切れないほどの映画を見ているはずなのだが、印象に残っているのは『明日に流れる川』だ。明桂南(ミョン・ゲナム)、楊喜京(ヤン・ヒギョン)など、今でも活躍する俳優が登場し、ロードショー上映されたものではあった。しかし、韓国では少しでも客が入らないと、すぐに上映をやめてしまうこともあり、僕が見たのは地下上映でだった。

「母を失ったジョンインは、(唯一血の繋がった妹の)ミョンヒとの関係を断ち、一人で広告代理店のビデオ監督として生きる。そんなある日、小説家の友人と共に好奇心から立ち寄ったゲイバーで、自動車のディーラーをしているスンゴルに出会う。ジョンインは家族を優先するスンゴルが不満だが、それでも二人の愛情は深まっていく。ジョンインはスンゴルが糖尿病で入院した間、寂しさから訪れたゲイバーで出会ったパン社長についていくも、スンゴルのいないことばかりが気になり、社長の家を飛び出す。それをきっかけにより親密になった二人は、チョン・ギモ(実母の再婚相手の第三夫人)の還暦祝いの場で、二人が恋人同士を告白する」(「韓国クィア映画史」より抜粋)

『明日に流れる川』場面写真

『明日に流れる川』場面写真

今回、この文章を書くに当たって、20年ぶりに映画を見直してみようと思ったのだが、残念ながら見つからない。複数の評から映画の大まかなストーリーを再構成してみると、朝鮮戦争で夫を失った母親が、別の男性と結婚するもうまくいかず、息子はベトナム戦争で戦死という、激動の近現代史を生きた韓国の家族を描いた前編、そしてゲイという言葉すら韓国に伝わっていなかったであろう時代を生きる“おっさんずラブ”を描いた後編という構成で、あまり1本の映画にまとめた意味が見いだせないものらしい。1997年の第6回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映されたそうなので、どこかで見られる機会があるはずなのだが、もしなければ自分で作りたいと考えている。

クィア映画が政府公認の企画へと変わった、この20年

『ブエノスアイレス』上映を巡る騒動から1年あまりが経った1998年11月、ソウル市内の民間のホール、アート・ソンジェ・センターで、第1回ソウルクィア映画祭が開かれることとなった。その代表を務めていた徐東辰(ソ・ドンジン)さんは、韓国の延世(ヨンセ)大学で韓国初となるゲイサークルCome Togetherを立ち上げたことで、大学院への入学を拒否され、大学講師として活躍していた。彼の学習会に参加したことをきっかけに、映画祭のお手伝いをすることになった。とは言っても、会場のセッティングなど雑用に過ぎないのだが。

アート・ソンジェ・センターのinstagramの公式アカウント

アート・ソンジェ・センターのinstagramの公式アカウント

 

実は前年に、延世大学のキャンパス内で開催が予定されていたのだが、大学当局の妨害で中止に追い込まれた。アート・ソンジェ・センターへと場所を変え、時間も変更した上で改めて開催することになったのだが、会場側は極めて非協力的だったことを記憶している。今では公式のInstagramでレインボーカラーのプロフィールを掲げているのを見ると、10数年の時の流れと変化を肌で感じる。同性愛を取り締まる側だった政府だが、今ではその外郭団体の韓国映像資料院が「隠されたクィア映画を探して:1996年以前の韓国クィア映画」という企画を立ち上げるほどだ。

時の流れと言えば、横浜の神奈川芸術劇場で開かれた国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2018(TPAM2018)のプログラムの一つとして、サイレン・チョン・ウニョンさんの「変則のファンタジー_日本版」の中で、僕が日本語字幕の翻訳を担当した映画『ウィークエンズ』の上映が行われたのだが、その観客の一人として来ていた徐東辰さんと10数年ぶりに再会したことも挙げておきたい。ソウルクィア映画祭立ち上げ当時は貧乏な講師だった彼が、有名な芸大の教授となっていた。

念願の平等法成立か、バックラッシュか

しかし、この10数年の権利獲得に向けた運動が順調だったとは言い難い。2000年9月に、韓国の芸能人として初めてカムアウトした洪錫天(ホン・ソクチョン)さんは、当時出演していた子ども番組から降ろされ、数年に渡って「干された」。同じ年には、当時最大のゲイとレズビアンのコミュニティサイトEXZONEが、情報通信倫理委員会から青少年有害媒体に指定されてしまったのだ。そればかりか「同性愛」が禁則キーワードとされてしまった。

韓国では、有害指定されたサイトはブロックされてしまい、当時一般的でなかったVPN(仮想回線)などを使わない限り、国内からはアクセスができなくなってしまう。この差別的な決定を覆すための裁判闘争が行われた。三権から独立した人権擁護機関、国家人権委員会は2003年、同性愛を青少年にとって有害とするのは性的指向に基づく差別だとして、一連の決定を取り消し、関連法の修正を勧告した。そして翌年、青少年保護法施行令は改正された。

2007年には、差別を包括的に禁止する差別禁止法制定の動きが起きた。しかし、保守派やキリスト教団体からの強い抵抗を受け、それらの票の逸走を恐れた議員たちが本腰を入れず、結局は廃案に追い込まれてしまった。そして2021年、8度目のチャレンジが行われている。

韓国国会の公式ウェブ署名サイト「国民同意請願」で、差別禁止法の制定を求める請願が立ち上がり、「30日以内に10万人の署名を集める」条件をクリアするために、大規模なキャンペーンが繰り広げられた。そして、6月14日に無事目標を達成し、請願書は国会の法制司法委員会に送られた。これを受けて、与党「共に民主党」の議員24人は、国会に平等に関する法律案を発議した。

法案は、障害、兵歴、出身国家、民族、人種、肌の色、出身地域、容貌、遺伝情報、婚姻、妊娠、出産、家族の形や状況、宗教、思想、政治的立場、前科、学歴、雇用形態、社会的身分、そして、性的指向とジェンダー・アイデンティに基づく差別を禁止するというものだ。

次期大統領候補と目される人々も次々に前向きな姿勢を示しており、多くの人々の10数年来の念願がようやく叶うかもしれない。しかし、反対派の抵抗は強く、平等法の制定が挫折させられるばかりか、保守政権が誕生すれば、強力なバッシュラッシュが来襲し、「地下」に潜っていたあの時代への回帰を強いられるかもしれない状況が同時に存在しているのが、今の韓国だ。

映画をめぐる攻防を含めた30年近い、LGBTムーブメントに関する様々な資料は、Korea Queer Archiveというアーカイブに保存されている。公式サイトによると、アーカイブの構築を目的に2002年に設立された韓国性的少数者文化人権センターを母体にし、資料収集を行い、2009年に正式に発足した。通常は閉架で運営されているが、2019年10月に行われたイベントでは所蔵された資料の1割に当たる約8000点が展示された。その関連イベントでは、いかなる資料が存在するのかは、アーカイブに関わる人ですらすべて把握してきれていないと話していた。ムーブメント以前の歴史に焦点を当てたオーラルヒストリーの収集も行われているそうだ。

助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京

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彼の髪の色


歴史や記憶や保存について考える作品や活動を見つめるノーマルスクリーンの特集 ▶︎ 

2017年に欧米を中心に世界の映画祭で上映されたイギリスの短編映画『彼の髪の色』を日本語字幕つきで公開します。

舞台は、1960年代中頃のイギリス。男性間の親密な関係が違法(1885年から続いた)であった時代のゲイカップルが登場し、そこにアーカイヴ資料が織り込まれます。浮かび上がるのは、当時のゲイ男性らが人知れず苦しんだ時間。法改正により同性愛が脱犯罪化されて50年後の2017年、それを祝い様々な作品や催しがイギリスで行われ、本作も発表されました。本作では、映像化されず幻となっていた脚本「彼の髪の色」をもとにした劇映画とアーカイブ化されているニュース映像や個人的な記録などが織り込まれています。冒頭で言及される1954年の「モンタギュー事件」とは、モンタギュー卿が男性に性行為を扇動したとして逮捕され有罪判決を受けたことを指します。これをきっかけにイギリス市民は、この法律に異議を表明し始め、政府は調査委員会を設置しました。

『彼の髪の色』の劇映画部分には、本作制作時は英国テレビや小さな映画に出演する“インディー俳優”だったジョシュ・オコナー。彼は後に、出演作の『ゴッズ・オウン・カントリー』の成功により、ファッションブランド「ロエベ」の顔になり、Netflixドラマ『ザ・クラウン』では、チャールズ皇太子を演じゴールデングローブ賞を受賞しています。

 
 
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Director: Sam Ashby
Cast: Sean Hart, Josh O’Connor 
Camera: Jessica Sarah Rinland 
Music: Leslie Deere 
Sound: Joe Campbell 
Colourist: Chloe Thorne

可能であれば、カンパお願いします ♡
・Peatix - https://ns-donation.peatix.com/
・PayPal - https://paypal.me/normalscreen

・STORES - https://normalscreen.stores.jp/items/6121d86e2b2d3d7a58d47c13


 

字幕:
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・難聴/ろうの方は[日本語 CC]を選択してください。

 

Sam Ashby
監督:サム・アシュビー:ロンドン拠点のアーティスト、デザイナー、ライター。アシュビーは、15年以上にわたりイギリスのインディー作品のポスターデザインを多く手がける。そのかたわら、2010年から自身で雑誌Little Joeを制作し出版(現在は休刊状態)。現在は映画ポスターなどのグラフィックデザインを続け、長編映画の準備をしている。

ゲイの弟の経験をもとにした脚本を発掘し、動き出したプロジェクト。

『彼の髪の色』が発表された2017年、イギリスでは、男性間の親密な関係を違法としていた、法律(いわゆるソドミー法)の撤廃から50周年でした。それを記念し、関連する数多くのテレビ番組や映画が製作され、展示などのイベントも多く行われていました。

その数年前、主に映画ポスターのグラフィックデザインや映画に関する執筆で活躍していたイギリス人のサム・アシュビーは、念願の映画制作をするため、リサーチを始めていました。クィア・ヒストリーに強い関心をもち、自身で雑誌「Little Joe」(刺激的なヴィジュアルと、主に欧米のクィアの歴史における映画を著名なアーティスト、作家、映画監督らがジェンダーやセクシュアリティの観点から語るインタビューやエッセイから構成されている)を出版するほどだったアシュビーは、ある時、ロンドンのthe Hall-Carpenter Archives で本作の元となるシナリオを発見し、それにフォーカスすることを決心します。

ブラックメールを送られ、困惑するゲイカップルが描かれ「彼の髪の色」と題されたそのシナリオは、1964年にエリザベス・モンタギュー(モンタギュー事件で裁判にかけられたモンタギュー卿の姉)により書かれたもの。しかし、映画の制作は実現していませんでした。それを発見したときのことをアシュビーは、米Criterionによるインタビューで次のように語っています。

「(シナリオは)歴史的な重みを備えた、非常にユニークなテキストでした。このシナリオで絶対に何かをしなくてはいけないと思わせる重さでした。この物語を敬意を持って語らなければならない、という責任感を伴うものでもありました。このスクリプトが当初意図していたことを尊重したかった。その意図とは、同性愛に対する世論をかえるための教育的な役割です。しかし同時に、アーカイヴとの出会いという私の経験とリサーチを通して浮かび上がった多くの疑問をもりこもうと試みました。」

本作では、ドキュメンタリー、ニュース、アーカイヴの映像やインタビュー音声などが折り込まれています。まず、ニュース映像に関しては、脱犯罪化50周年の特別上映プログラムにむけ大量にデジタル化されていた資料を英国映画協会(BFI)で確認。スーパー8のホームムービーは、レズビアン&ゲイ ニュースメディア・アーカイブ (LAGNA at ビショップスゲイト インスティテュート)で発見し、撮影者から許可をもらい使用しています。その他のLAGNAのアーカイヴは寄贈されたロンドン・スクール オブ エコノミクス(LSE)が全てを受け付けなかったために、ロンドン内3ヶ所(LSE、大英図書館、ビショップスゲイト インスティテュート)に分散してしまっているという残念な状況にアシュビーは気付いたそうです。

それら分散したアーカイヴを集め、イメージがたくみに編集された手法について、アシュビーは以下のように語っています。

「モンタギューが書いたナラティブとキャラクターを膨らませる代わりに、観る人がよりひろい視野でこの物語を理解できるように、当時のこの法律下での生活やアクティヴィズム、そして法の改正後に盛り上がったクィアカルチャーの状況がわかるようにしたかった。そしてアーカイヴのおかげでこのスクリプトに出会えたので、この物語を伝えるために他に何を見つけられるかを探るのも私にとって大切なことでした。その結果、オーラルヒストリーやアーカイヴ映像も含まれることになったのです。それぞれがその時間ならではのかたちで存在しているので、私が編集でつくりたかった“時間を旅しているような感覚”がそこにはあります。」

2017年のイギリスでは、LGBTQに関連する展覧会やラジオとテレビなどでも番組が大量に放送されました。なかでもBBCは、特別に編成するほどコンテンツを作成しました。その1つとして、モンタギュー卿とともに逮捕された一人でジャーナリストだったピーター・ワイルドブラッドの自伝「Against The Law」をもとにした映画も放送されました。劇映画と当時同様に苦しんだ経験のある年配のゲイの人々のインタビューで構成され、1967年以降も偏見やトラウマなどに悩まされた人々の声が紹介されます。しかし、そこにも汲み取られてない声があるでしょう。

『彼の髪の色』の終盤で、アーキビストがアーカイブと向き合う際に心がけるべきことを伝える通りです。「どんな場合も、ここにいないのは誰かを考えたい。アクセスできなかった声を認識し、必要な努力を知る必要がある。」



 
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*英国の性犯罪法は1967年にイングランドとウェールズで、21歳以上の男性同士の同性愛行為を合法化した。しかしスコットランドでは1980年、北アイルランドでは1982年になるまで、同性愛は違法だった。(BBC記事より抜粋:https://www.bbc.com/japanese/37713830)


関連情報/参考:

・インド最高裁、同性同士の性行為に合法判決(BBC|2018年9月)https://www.bbc.com/japanese/45431512

・同性愛で有罪となった故人数千人を赦免 英政府(BBC|2016年10月)https://www.bbc.com/japanese/37713830

・暗号解読者チューリングの新ポンド紙幣お披露目 6月から流通(AFPBB|2021年3月)https://www.afpbb.com/articles/-/3338826?pid=23194071 

・映画『ジュディ 虹の彼方に』(1968年のロンドンで5週間の滞在をしたジュディ・ガーランドの姿が描かれる)https://gaga.ne.jp/judy




日本語字幕、協力:西山敦子
主催:ノーマルスクリーン
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京

 
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《後編》ドイツ国立歴史博物館での「ホモセクシュアリティーズ」展はいかにして実現したか。

《後編》目指したのは、見る人の視点を変えること

2015年、ドイツ歴史博物館とシュヴルス・ミュージアムで同時開催された「Homosexuality_ies(ホモセクシュアリティーズ)」展のディレクター、ビルギット・ボソルド(Birgit Bosold)さんに、写真家の間部百合さんがインタビュー。
後編では、この展示は、ただ同性愛の歴史を見せるだけのものではないという話に。
同性愛者や女性など、マイノリティがいかにして社会で周縁化されていくかを示したかったという、この展示に込められた意図を聞いた。

Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe

フェミニズム視点の同性愛史を見せたかった

M(Yuri Manabe):最初の展示室にあった女の人たちの古い絵が印象的でした。どうやってあれらがレズビアンにつながっているとわかったのですか?

B(Dr. Birgit Bosold):はっきりわかっているわけではありませんよ。確かに中には何人かレズビアンがいますが、ここで見せようとしている主な視点はそういうことでありません。ここでの主題は、テーマについて話すこと、そして、認識はどのようにして起こるかということです。

例えば、ヨーロッパの美術史ではとても有名な、クールベによる女性カップルの絵画があります。この絵の女性たちはほぼ裸でエロティックなポーズをしているのですが、ヨーロッパの美術史の中では誰も彼女たちをレズビアンとは認識していません。

例えば同じポーズを2人の裸の男性がしていたら、誰もが「ああ、これはゲイだな」って言うでしょう。でも、2人の女性が裸でいてもレズビアンとは言われない。レズビアンの欲望は認識されないのです。女性同士はセックスできない。女性同士の同性愛は存在しないと言うのと同じです。

これは自画像の話にも通じるものがあります。自画像の展示コーナーがありましたよね。これらの自画像のポーズは、美術史上よく描かれてきた女性のポーズとは全然違います。「私はペインターだ」っていう絵。

過去にはアーティストといえばほとんどが男性でした。女性はアートを学ぶことができなかったし、女性のアートは真面目に取り扱ってはもらえなかった。女性アーティストとして自分自身を描くことは、いわゆる“女性表象”とはまったく違う表現です。自意識についての異議申し立てとしての行為、気づきの表現なんです。

美術史の中で、“女性、レズビアン、異性愛規範的でないアイデンティティ”について、何を認識して何を認識してこなかったのかを見せることが、ここでのテーマであり目的でした。

同性愛は長い間犯罪でしたからね。公的文書の中に記録を見つけることはできないでしょう。なので、美術史自体の読み直しが必要なんです。もし読み直しを始めたら、そこにはたくさんの興味深い発見がある。それを示すことがこのセクションの目的でした。レズビアンのアーティストを見せたかったわけじゃないんです。

M:そうだったのですね。私は単純にこの時代にこんな人がいたんだ、とわくわくしていましたけど。ある意味とても複雑な、表面に出てこない視点を、インスタレーションとして見せていたのですね。

ちなみにこの展示は、かなり女性にフォーカスしているように思えたんですけど、どうしてこうなったのですか?

B:どうして女性にフォーカスしてはダメなんですか?

M:いい答えですね。

B:それはね、この展示のメインの目的なんです。今までいつも同性愛について公に話すときの視点は男性でした。たぶん日本も同じでしょう。今回の展示で、私が特に大事にしたことの一つに、レズビアン、フェミニスト、アクティビストの存在やストーリーを見せることがありました。なぜなら、彼女たちはとても重要な存在だからです。ゲイムーブメントにも、フェミニズムムーブメントにも大事な存在なんです。彼女たちに光を当てたかった。見せたかったし、感謝したかった。歓迎したかったんです。そこに気づいてくれたんですね。嬉しいですよ。

M:もちろんです。気づきましたよ。

ところで、シュヴルス・ミュージアムの中での展示に「what's next」というのがありましたよね。今活躍しているアクティビストやアーティストたちが同じ質問に答えた動画で、「クィアって何ですか?」という質問に対して「クィアにはフェミニズムの視点が大事だ」と言っている人がいたのがすごく印象的でした。

B:あのアートワークで見せている多様な視点こそ、私たちが一番見せたかった部分です。あの展示では、ゲイポリティクス、クィアポリティクス、レズビアンポリティクスの違いを見せています。こういう展示の仕方は、私がディレクターだったから、ボスだったから決められたのです。私がレズビアンでフェミニストだから、“視点”を変える必要があったんです。

M:かっこいい! それにしても、フェミニズムの視点をこんなに盛り込むことは大変だったんじゃないですか? 現実として、すごく男性中心的な世界では。

B:確かにそうです。

 
Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe

見せたかったのはマイノリティの歴史ではなく 社会の中のジェンダー規範

B:でもね、考えてみてください。同性愛はスキャンダルだった時間が長かった。ある意味では、そうでなくてはならなかったし、今でもそうなんです。男性同性愛の合法化には大変長い、100年以上の論議が必要でした。しかし、なぜ同性愛が問題だったのか、今私たちは理解できなくなっているのです。

M:なるほど、そうですね。

B:どうしてそれが問題になり、問題にすべきだったのでしょうか。それは、「ジェンダーの規範/序列」の考え方を理解していないと、わからないと思います。

いわゆる異性愛規範の世界では、ジェンダー(社会的性別)もセックス(生物学的性別)も2種類だけです。この異なる2種類がセックスすることになっている、しなければならない。この異なる2種類が「セックス」して「子ども」を作って、社会の中で特権を持っています。こうして、ある種のジェンダーが他のジェンダーより特権を持つ構造ができるのです。それは神の創造した自然である、とか言われたりして。

これは世界のさまざまな場所で基本的な見方として存在してきました。「レズビアンは本当の女性ではない」とか「ブッチは女ではない」とか「ゲイは本物の男ではない、女性である」とか。女性同性愛者や男性同性愛者の存在は、“自然”な性別役割への攻撃だと思われるんです。

同性愛を問題視する背景に、こういった広い文脈がまずあるのです。“自然”と言われているものが実は自然ではなく、“セックスやジェンダーがどうあるべきかという考え方”が存在している。

個人的なことは個人的なこと。個人的な関係や感情は、個人的なセクシュアリティ。でも、これらは本当に政治的なことなんです。政治とつながっているんです。もしあなたがこうしたバックグラウンドを知らなければ、何を議論しているのか、なぜ多くの社会において同性愛が問題になるのかを理解することができないのです。

M:とても興味深いです。そしてとてもわかりやすいですね。例えば異性愛規範の確固たる社会からしたら、同性愛のことは自分たちとは関係ないから考えない、忘れてしまっても構わないと、問題すら考えない人たちがいるのではないでしょうか?

B:そうですね。ですから、私たちの目的の一つは、こういう視点を社会に対して開くことだったのです。私たちは、マイノリティの歴史を見せたいわけではありません。変な趣味の、変わったある種の人たちの習慣を見せたいわけではありません。社会のど真ん中での、“この議論”そのもの、何が社会の原理とされているのかという基本的な考え方を、議論を見せたかったのです。「はい、私はホモです」というだけではなくて、社会に存在してきた考え方や背景、そのありようを見せたかったのです。

M:そうですね。“私”は個人であり、アイデンティティを持っています。そして同時に、自分の属するカルチャーの上に成り立っていますよね。社会は個人から切り離せるものではない。“私”は社会的な在り方から逃げることはできない。日本人であること、日本の法に則っていること、日本の慣習の則っていることなどなど。だから私は、社会と個人の関係性を考えるという意味でも、クィアシーンが面白く思えるのです。

B:そうね。ヘザー・カシルスのメインビジュアルになったポスターの写真を覚えていますか? あれは多くの人を刺激するものです。

M:ああ、はい、そうですよね。そう思いました。

B:あれは、私たちが開きたかったとてもベーシックな「問いかけ」の作品です。この展示が何についてのものであるかを、明確に見せてくれる作品だと思います。体とは、ジェンダーとは、セクシュアリティとは、規範とは何か。これらは互いにどう関係しているのかを、わかりやすく見せていますよね。

 
Schwules Museum, the exhibition “Homosexuality_ies” poster. Heather Cassils.

Schwules Museum, the exhibition “Homosexuality_ies” poster. Heather Cassils.

今もなお、女性差別は根本的な議論

M:一般的に、異性愛規範的な人たち、保守な人たちの多くは、セックスや欲望について日常の中で話すことを避けますよね。実際には彼らにとっても日常的なことなのに。そういった人たちも含めて、この展示への反応はどうでしたか?

B:反応はとても広くありました。特にメディアからの反応は多かったですね。ドイツの大手新聞、アメリカのメディア、さまざまなLGBTマガジン、ワールドワイドでした。そして、来場者は10万人を超えています。でも、この展示はやっぱり、主に若い人たちやクィア、ゲイの人たちのものだと思いますね。いろいろな視点を可視化していくといってもね、いわゆる保守的な人たちはこの展示を見たくないでしょうね。

M:……。でも、国立の歴史博物館で同性愛に関する展示をするのは、たぶん世界でも初めてだったんじゃないですか?

B:ええ、そうですね。ニューヨークの美術館でもとても重要なゲイアートの展示がありましたが、こういった文化や歴史の世界での展示は世界でも初めてだと思います。私たちが“前衛”です!(キリッ)

M:今までの活動で、仲違いってなかったのですか? レズビアンとゲイの違いや、男社会という基盤についての考察の違い、マイノリティの中での差別とか。

B:70年代は、ゲイとレズビアンの間に非常に深刻な仲違いがありました。ゲイムーブメントが始まった当初、レズビアンとゲイは一緒に活動していました。ところが70年代半ばには、レズビアンアクティビストはゲイと一緒に活動するのをやめて去り、自分たちの活動の場所を作ったんです。そしてそれが、フェミニズムムーブメントにつながっていきます。

男性が支配している世界で、男性と活動することは困難だったのですね。男性たちはお金や権力を持っているし、他にもいろいろ……。

2年前、『ジーゲスゾイレ』というゲイのフリーマガジンが、クィアシーンにおける男性支配やレズビアンポリティクスについての議題を取り上げました。70年代とは変わってきていますが、今でも議論は続いています。

シュヴルス・ミュージアムは、とても大きな博物館です。レズビアンミュージアムに比べると、すごく大きい。世界ではサンフランシスコとベルリンにゲイミュージアムがありますが、それらと比べてもシュヴルス・ミュージアムは大きくて、一番古いのです。そういう私たちですら、今でも男女差別の問題については話し合っています。日常的な議論ではありませんが、根本的にはありますね。やはり今でも男性たちには特権がありますから。

M:なるほど。そんな男性視点がとても多い社会で、女性視点で作られているこの展示は、やっぱりすごいです。この時代においても。

B:それが一つの目的でしたからね。視点を変えること。でも、すべてが変わったわけではありません。これは一つのステップだと考えていますね。

 
Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe

「Homosexuality_ies」展、その後

2016年3月、シュヴルス・ミュージアムの入り口のドアに、銃で開けられた穴ができた。何によって開けられたかはわからない。弾丸が見つかっていないから、エアガンによるものかもしれない。

「ここにいる人はほとんどがボランティアで、誰がどんな状態であっても受け入れられる、安全な場所があることを喜んで来ているんです」と、スタッフメンバーは心配している。

同年5月、「Homosexuality_ies」の展示は、南ドイツのヴェストファーレン州立美術館への巡回展が決まった。ところが、首都ベルリンよりも保守的と言われる街では、論争が起こった。ドイツ鉄道ドイチェ・バーン社が、列車内広告に展示の宣伝ポスターを貼ることはできないと言ったのだ。それも、性的で、かつセクシストであるという理由で。

この展示のオーガナイザーの一つであるシュヴルス・ミュージアムは、メディアに向けて声明を発表し抗議した。

「2015年末にケルンで大勢の女性(被害届は500件以上)が強盗・性的暴行にあったことを受けて、世論がセクシズムに敏感になっていると、ドイチェ・バーン社は言っています。しかし、その禁止は間違っているし、適切ではありません。今までヘテロセクシュアル視点のヌードであれば問題なく使用してきたことは、興味深いと言わざるを得ません。ジェンダーの概念を問う内容となると途端に検閲してセクシストと呼び、公共の展示にはふさわしくないと判断されるとは」

数日後、ドイチェ・バーン社は先の決定を取り下げたが、展示の広告掲載場所はすでに移してしまっていた。

論議が巻き起こったことについて、ポスター写真を制作したアーティストであるカシルスは「私の作品に対して嫌悪感を示すことは、より広い意味でのトランスフォビアを示すことに他ならず、それは結果的にトランスジェンダーや、ジェンダーに適合しない体を持つ人たちの存在を、公共スペースから排除することに繋がるのです」と自身のウェブサイトで訴えた。カシルスは、ドイチェ・バーン社がセクシストだといった作品を、インターネット上で無料でダウンロードできるようにし、ドイツ鉄道の駅に設置されている性差別的で異性愛規範的な広告の上に貼るよう呼びかけている。

社会のコンセンサスに内在化している規範や、検閲という権力の現れ方、あり方に対しての問いかけは、まだまだ続きそうだ。

 
Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe


レズビアン ハストリー アーカイブ

ニューヨークのブルックリンにレズビアンの人たちにより始まり現在も続くアーカイブがあることを知っていますか? 1970年代に、他では見つけることのできなかった自分たちの求めるもの、そして自分たちの記録を自分たちで保存するために女性たちがマンハッタンのあるアパートメントに資料をあつめはじめました。やがてレズビアンの経験に特化したアーカイブとしては、世界最大級となります。

今回は、その空間を紹介する短編ドキュメンタリー2本を日本語字幕つきで公開し、2019年に現地で同施設に何度も訪れ調査された菅野優香さん(同志社大学・視覚文化研究やクィア・スタディーズなどを研究)にオンラインでお話していただき、希望者によるディスカッションも行います!(計90分ほどを予定)

詳しくはこちら:https://normal-herstory.peatix.com/

このイベントは、歴史や記憶や保存について考える特集の1つです。

 

 

    * * *     * * *     * * *

レズビアン ハストリー アーカイブ:その歩みを振り返る
(メガン・ロスマン|6 min|2016)©Megan Rossman

歴史が作られる横で消えていく。そう気づいた女性たちが1974年に設立したレズビアン ハストリー アーカイブ(LHA)。男たちの目線で語られてきたヒストリー(his story)ではなくハストリー(her story)。彼女たちのミッションは、レズビアンたちの人生や活動、そしてその証を集め保存すること。そうすることで、先の世代が、自分たちの人生に直に関わる情報に触れることができる環境をつくってきた。本作では、ニューヨークで現在も続くその活動を垣間見ることができる。

ラブレター レスキュー隊
(メガン・ロスマン|7 min|2016)©Megan Rossman

LHAのこれまでをもう一度ふりかえりつつ、共同設立者のデボラがより具体的なエピソードを語る。若い頃に公民権運動に刺激を受けたというデボラは、ストーンウォールの反乱から数年後にアーカイブを設立。アーカイブはアクティヴィズムだ、と語りつつ、ある時は、誰かが失恋した勢いで捨てそうな恋文を “レスキュー” する隊員のようだったと、笑う。

*日本語字幕表示は画面右下【CC】をクリックしてください。

監督プロフィール
メガン・ロスマン
大学在学中からドキュメンタリーの制作をはじめ、これまでに手がけた作品は、世界中の映画祭で上映された。ワシントンポスト紙でメディアジャーナリストとして従事し、2011年にはエミー賞を受賞した。ここで公開した短編作品は、アメリカ国内のLGBTQ映画祭はもちろん、欧州や韓国でも上映され好評をはくした。2019年には、今回公開した短編2作品をベースにした長編映画『The Archivettes』を発表し、LAの大規模なクィア映画祭Outfestなど50以上の映画祭で上映された。ロスマンは、ニューヨーク州立大学パーチェス校で教鞭もとる。

Rossman at the 2017 Princess Grace Awards Gala. (photo by Matt Winkelmeyer/ Getty Images)

Rossman at the 2017 Princess Grace Awards Gala. (photo by Matt Winkelmeyer/ Getty Images)

 
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《前編》ドイツ国立歴史博物館での「ホモセクシュアリティーズ」展はいかにして実現したか。

《前編》1970年代からの資料収集がすべての始まり

LGBTQに関する展示が、国立歴史博物館で開催されるなんて、想像できるだろうか。 2015年、ドイツ歴史博物館とシュヴルス・ミュージアム(1985年に設立されたLGBTQ+の歴史と文化についてのミュージアム、アーカイブ、リサーチセンター)では、「Homosexuality_ies(ホモセクシュアリティーズ)」展が同時開催された。 そこで展示されたのは、18世紀後半から現在に至るまでの同性愛の歴史、政治、文化に関する幅広い資料の数々。
2016年2月4日、その展示を観て感銘を受けた写真家の間部百合さんが、この展示のディレクター、ビルギット・ボソルド(Birgit Bosold)さんにインタビュー。 この歴史的な展示が実現するまでの経緯を聞いた。

Photos: Yuri Manabe

Photos: Yuri Manabe

国立歴史博物館での同性愛の展示は「普通」か否か

B(Dr. Birgit Bosold):あなたはベルリンに住んでいるの?

M(Yuri Manabe):いえ、ベルリンに住んでいる子と仲良くしているので、よくベルリンに来るんです。それで、展示を観にきたんです。

B:どうだった?

M:すごくよかったです。びっくりしました。LGBTの歴史や資料をギャラリーで展示することはあっても、国の公共施設であるドイツ歴史博物館でやるなんて、ありえない! って思いました。これって、とてもすごいことじゃないですか?

B:そうですね。社会の真ん中ですからね。

M:それで興奮して、「歴史博物館で同性愛に関する展示をしてるってすごくない?」と ある男友達(ちなみに彼はドイツ人でシスジェンダー異性愛者)に話したら、「そんなに珍しいことじゃないよ。同性愛はすでに社会の一部になっているから」と……。

B:いやいや、この展示はとても特別なことですよ。歴史博物館でやることもそうですし、レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、インターセックスなどの社会から取り残されている人たちをテーマにした、こういう展示は初めてのことですから。

例えば、最近あったドイツ歴史博物館の展示では、7000点もの展示物の中で同性愛者をテーマにした展示物はたった5つでした。多くの作品の中に少しだけ入れても、伝えられないことはたくさん残ります。疎外された人たちの持つさまざまな視点を、包括的に見せるのは難しいと思う。「同性愛に関する展示」を歴史として見せることは、貴重だと言えると思います。

だから、さっきのお友達の意見もすごく興味深いのです。LGBTの人たちは、この展示を観て「特別だ」と言う。でも、異性愛規範的な人たちは、「ああ、普通だよ」って言う。両者のリアクションが違うんですよね。

例えば女性、同性愛者、トランスジェンダー、インターセックス、移民……。そういう社会から取り残されている人たちを、展示の中に少しだけ入れることならできます。でも、今回のようにマイノリティの視点そのものの展示は、10年に1度しかないんです。

だから、もう一度言いますけれどね、これは決して「普通」ではありません。すごく貴重であって、ドイツ歴史博物館の約25年間の歴史の中で、初めての同性愛についての展示なんです。だから、当たり前だなんて、私に言わないでほしいですね(笑)

M:よかった。私もあなたと同じような意見でした。その男性が「珍しくないよ」って言ったことにびっくりしたんです。

B:まあ、ある意味では、今の人たちにとっては珍しくないのかもしれませんね。だって、10年前、20年前は想像もできなかった展示が実現したのですから。近年になって、こういうテーマの展示を国の博物館が行うということが、普通になってきたという状況はあります。でも、日常の中で普通かというと、それは違う。


歴史を残すための第一歩は、収集すること

M:実際どのくらいの時間をかけて、どのような努力の末に、こういう展示が実現したんですか?

B:実現するのには、いろいろなレベルの努力がありました。まずは、シュヴルス・ミュージアム設立の1985年からの働きがあります。30年間のコレクション、ネットワーク、情報、研究といった活動、それ自体が準備と言えますね。

今回の展示物の70~80%は、私たちが積み重ねてきたアーカイブからの賜物です。つまり、シュヴルス・ミュージアムのコレクションから出しています。誰かに頼んだりしていたら、実現できなかったでしょうね。根本的・基礎的なコンテンツのベースがあったのです。

私は30年以上、アクティビストとしてベルリンに住んできて、2006年からこのシュヴルス・ミュージアムの取締役会の一員になって働いています。それで、いくつかの展示をキュレーションしてきました。そして今回、この展示のディレクターとして関わることになったんです。

最初の企画会議は2012年。企画書を出して、2つの大きな芸術財団のサポートを受けることができました。シュヴルス・ミュージアムは、信用ある団体としての価値を持っていたことになります。そして2013年12月に、この展示をドイツ歴史博物館で行うことが決定しました。

会期のスタートは2015年6月。シュヴルス・ミュージアムは多くのアーカイブやネットワークを持っていたので、何とか実現できましたが、準備期間は相当に短いものでした。この大きな歴史の展示をするには、1年半の準備期間は決して十分とは言えませんでしたね。

M:1年半は短いですね。

B:レズアビンアーカイブの『シュピンボーデン』って知っていますか? 

M:知りません。 アーカイブ団体だったら『ビルトビクセル』は知っています。

B:ビルトビクセルは、ハンブルグのすごくいいスペースですよね。フェミニスト、クィアアート、ビデオ、フィルム、ビジュアルアートを収集していて、とても大きなアーカイブを持っています。それとは違ってシュピンボーデンは、ベルリンにあるレズビアンに関するアーカイブ団体で、1970年代の半ばには小さくでは収集が始まっていたと思います。現在では大きなコレクションがありますね。一方で、シュヴルス・ミュージアムは大きな博物館で、6000点ものアーカイブを持っています。今回展示したものは、それらの中からのセレクションです。

最初のほうの展示室で、ポルノやボディビルディングなど250点ぐらいの写真やポストカードの展示があったのを覚えていますか? あれは私たちのコレクションの一つで、シュヴルス・ミュージアムの創立者の一人であるアンドレアス・スタンヴァイラーが、80年代に主にフリーマーケットで収集した、トランスジェンダーや男同士の友情関係を写したポストカードです。兵隊たちがお互いを触り合っているポストカードなどもありますね。

M:フリーマーケットでそんな写真を見つけることができるのですか!?

B:ええ。彼は70年代から収集を始めていました。もちろん特別な収集家からも集めていましたが、フリーマーケットで見つけることもできました。展示にも250枚のポストカードがあったということは、当時もっともっと大きなクィアシーンがあったことがわかりますよね。

M:売っている人は、写っているのがトランスジェンダーだと知って売っていたんですかね?

B:たぶん知らずに売っていたんでしょう。
この「収集する」ことの重要性がわかりますか? 集めていなかったら何もできないのです。

M:私は日本のレズビアンの歴史に関するボランティアグループを手伝っていて、歴史を掘り起こすことをとても重要に感じています。でも、歴史として残っていないのですね。日本におけるレズビアンの存在がなかなか見えてこないのです。

B:そうですね。難しいですよね。今回の展示の目的の一つは、このコレクションを見せることでした。同性愛に関する歴史、または追いやられている人たちのグループなどの記録。記録や収集を牽引してきたのはアクティビストたちです。公的な記録には、そういったコレクションはありません。セクシュアルマイノリティは病理化されていたり、国の収集にとって重要視されていなかったりして、記述には残っていないんです。

最初の一歩は情報を集めること。でないと、歴史とは呼べないんです。研究でストーリーを伝えることもできない。アーカイブすること、それを見せることが重要でした。アーカイブを作り出すことや、その中にある政治的なものを、私たちは読み直す必要があるのです。

 
Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe

男性同性愛は違法、女性同性愛は存在しないもの

M:こういった場所づくりや収集のムーブメントが、70〜80年代に始まったのはなぜなんでしょうね?

B:70年代にはフェミニズムのムーブメントがありました。たぶん日本でもそうでしょう?

M:それかーーー!! 何かつながっているのかな? と思ったのです。

B:特にフェミニズムムーブメントとレズビアンムーブメントはつながっています。フェミニストムーブメントの立役者、ラディカルフェミニストの中に多くのレズビアンがいて、彼女たちは大変アクティブだったようです。実はゲイムーブメントが起こり始めた1969年まで、ドイツの刑法175条は男性同士の同性愛を違法にしていました。

M:男同士だけ?

B:そう、男同士だけ。わかるでしょう? 女同士ではセックスできないから。

M:マジですか?

B:女性同性愛は、深刻な問題とは考えられていなかったんですよ。この法律には長い歴史があります。1800年以前には、男性も女性も同性愛は断罪されていました。1871年にドイツが統合される前は、小さな国がそれぞれ違った法律を持っていて、それぞれ違った状況にありました。同性愛を違法とする法律を持っていない、ナポレオンを皇帝とするフランスの影響を受けている小国もあった一方で、プロイセンのようにソドミー法のある小国もありました。こうした混じり合った構造が、統一前のドイツにはありました。そして1871年、プロイセン王国首相ビスマルクが中心となって統一ドイツが生まれたときに引き継がれた刑法175条によって、男性同士の同性愛が違法とされたのです。

ここでなぜ女性同性愛が犯罪とされていないかというと、2つの理由があると思います。1つは、女性は男性のペニスなしではセックスできないと考えられていたから。ペニスがなくたって何だってできますが、それは本物のセックスではないと言うんです。レズビアンポルノもありましたが、それらはレズビアン女性のためのものではなく、ヘテロセクシュアル男性のためのもの。レズビアンは「大人になるまでの準備段階」とか「これは本物のセックスではない」とか「ペニスを持っているのは俺だ」とかそういう理屈で、真剣には考えられてこなかったのです。

もう1つ言えるのは、1871年のレズビアンを含む女性たちは、参政権もなく、働くこともできず、学ぶこともできなかったので、レズビアンライフを築くことが非常に難しかったということです。女性には何の権利もなかったんです。結婚しないで生きること自体が、経済的に難しい時代でした。もし「女性とともに生きたい」と思っても難しい状況があったせいで、犯罪化する理由もなかったということではないでしょうか?

M:レズビアンが存在すること自体が難しかったってことですか?

B:そうです。そういうことです。

 
Photo: Yuri Manabe

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犯罪状態からゲイマリッジまで

B:1908年まで、女性は大学で学ぶことができませんでした。女性が働くことや参政権が認められたのは1918年。参政権がなければ政治にかかわれないので、存在しないことになっているレズビアンは政治的な問題にすらならなかったってことです。この時期が第一派フェミニズムのムーブメントの時期なんですね。

第二次大戦後の1970年代の第二波フェミニズムと同じように、レズビアンアクティビズムは多かれ少なかれフェミニズムアクティビズムと関係しています。レズビアンの問題の前に、女性としての基本的な権理の問題と向き合わなければならなかったのです。

M:そうなんですね。1908年に女性が大学に行けるようになって、1918年に働くことが許された後、1920〜1930年代にはすでにサロン文化があったなんてすごいですね。ベルリンの早い時期のゲイ文化って有名ですよね。成熟がかなり早くないですか?

B:そうですね。20年代にはベルリンだけでなく全ドイツにレズビアンとゲイのカルチャーが見られます。この時代に知られた、素晴らしい小説を知っていますか?

M:知りません。

B:クリストファー・イシャウッドは読まないとダメですよ!

M:あ、その人! 『さらばベルリン(Goodbye to Berlin)』。

B:そうそう! あれは、レズビアン、ゲイのサブカルチャーだったと思います。当時はバー、新聞、雑誌、パーティ、サブカルチャーがあったけど、その期間はすごく短かった。1933年あたりにはナチスが台頭してきて、終わってしまいました。その後、ゲイカルチャーが花開くのは第二次大戦後まで待たなければなりませんでした。東ドイツと西ドイツ、2つの形でね。

M:極端ですね。

B:第二次大戦の後、東ドイツと西ドイツは別々の発展を遂げました。東側と西側は、経済的にも政治的にも違っていましたからね。

西側では戦後のバックラッシュが大きかった。50年代は、現在はメルケル首相の所属している保守政党で、カトリック協会とプロテスタントを含むキリスト教の政党である、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)がとても強かったんです。初代連邦首相はアデナウアーで、彼らはキリスト教倫理を新しく設定しました。それは、性に肯定的な姿勢とは真逆のものでした。ナチスによって遂行された古い刑法175条を、新しい民主的社会でもまた存続させて、廃止しようとはしなかったんです。

M:なんだか不思議ですね。東は社会主義に根ざしていたので、男女平等が徹底されていたって、前に聞いたことがあります。

B:そうなんです。西ドイツでは、1969年まで男性同性愛を違法とし、ナチスと同じく男性同性愛者を投獄していました。つまり、男性同性愛への厳罰がなくなったのは、1949年に西ドイツがドイツ連邦共和国として成立してから、20年も経ってからのことだったのです。

東ドイツでも刑法175条は存在していましたが、実際には刑は執行されていませんでした。つまり、どちらかというと東ドイツにいた男性同性愛者のほうが楽だったのです。西ドイツでは、はっきり犯罪として扱われていましたから。民主的な社会で、同性愛を理由に投獄するって信じられますか?

M:信じられませんね。私はどちらかというと西ドイツの資本主義のほうがいい社会だったのかと思っていましたから。自由がないと言われていた東ドイツの社会主義の社会より、西ドイツのほうが同性愛に対する扱いが酷いだなんて皮肉です。

でも、同性愛が犯罪とされている中で、どうやってゲイカルチャーが育ったのですか? ベルリンのゲイカルチャーは世界でも指折りですよね。

B:日本には同性愛を犯罪とする法律はないと思いますが、社会の差別はありますよね? 例えば60年代ごろに、同性愛者であることをオープンにするのは難しかったのではありませんか?

M:はい。まあでも、同性愛者やクィアの存在はありましたよね。江戸時代ごろにも、僧侶や武士の世界などにそういう人たちがいたという記述や絵図が残っていますよ。特にトランスベスタイト(異性装)の人たちとか。

B:それは特殊な社会においてでしょう?

M:そうですね。表には出てこなくても、アンダーグラウンドシーンにはたくさんいました。

B:そう、公式と実際とは違いますよね。たとえ公には禁止されていても、サブカルチャーとしてはたくさんのコミュニティや文化が存在している。それは、1950〜60年代のドイツも同じです。でも、公の評判になるリスクは付きまとってはいましたから、確かに難しかった。公になれば牢屋に入れられる可能性があったわけですから。

M:わー、強烈です。

B:まあ、最悪の場合ね。

70年代には第二のゲイムーブメントが起こり、大人の男性同性愛に関しては法に問われなくなっていきました。同時期に第二波フェミニズムムーブメントが始まった。そこからは、たぶん日本でも同じではないですか?

ゲイムーブメントは1969~1970年ごろから始まり、今に至る成功をしてきました。今では、準同性婚に相当する生活パートナーシップ法まで勝ち取った。異性愛カップルとまったく同じとは言えなくとも、同性カップルのパートナーシップは合法で公式なステータスとして認められています(2017年には同性婚が実現)。考えられますか? 40年前に違法だったものが今では合法となり、ドイツの歴史の一つとなっているのです。これが可視化、「社会の一部になった」ということです。それは大きな成功と許容ですよ。

 
Photo: Yuri Manabe

Photo: Yuri Manabe


 

アーカイブに関するオンライン特別企画 始動!

記憶、歴史、保存、


「歴史」という言葉は様々な角度からとらえることができます。これまでノーマルスクリーンで上映した作品すべてを「歴史」と紐づけることもできるし、学術的に深くとらえることもできるでしょう。日常の中の何気ない会話ですら、それを記録することで「歴史」になり得ます。この特集では、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人々にとっての過去や記録/それらと向き合う表現を通して、記憶や歴史や保存について緩やかに考えていきます。

だれがどう残すかにより歴史は変化します。主流文化にないがしろにされてきた、または今もされている活動や生活にまつわる事柄を、LGBTQの人々はどのように歴史に刻んできたのか。どのように記憶を残そうとしたのか。記録がない物事をどのように想像してきたのか。それらはどのように「今」に影響をおよぼしているのか。

古今往来すべてを網羅することはできませんが、国内外のアーカイブ活動や、過去の記録と向き合う映像作品や人、記憶されているけど消えそうなものなど...。特に、あえて残そうとしなければ無視されてしまいそうなものを中心に、ロンドンのLGBTQアーカイブで発見された資料を元に脅迫を受けていたゲイカップルの緊張を再現する映画、さらにブルックリンやベルリンのアーカイブなどをいくつか紹介します。日本での出来事も振り返り、様々な角度からみつめることで、私たちの「存在」について考えていくためのきっかけがここで生まれたらと願っています。


企画:ノーマルスクリーン
チーム:秋田祥|山賀沙耶|間部百合
助成:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京

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ベトナムで抑圧された生活、育んだ関係をアーカイブするディン・ニュンさん

3週間のタイ・ベトナム滞在の終盤、暑い6月最終週。ベトナムの女性やセクシャルマイノリティの人々のストーリーを形にして伝えるディン・ニュンさんに出会いました。忙しいなか時間を割き説明してもらったその興味深い活動を紹介します。

ニュンは謙虚で自らの肩書きを名乗ることに戸惑いを見せるが、その活動はアーカイブからアート展示のキュレーション、ワークショップの指揮と幅広い。初めて彼女のことを知ったのはリサーチの過程でイギリスのザ・ガーディアンの記事を読んだ時だった。そこには彼女が、ベトナムの抑圧されたレズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、バイセクシャルの人々の所有する、とてもパーソナルなものをアーカイブしていると紹介されていた。その記事の話をすると、ニュンは「“アーカイブ”と一言で言ってもとても奥が深い分野で、それをしっかりと理解できているかは分からない」そう言って自身を“アーキヴィスト”というのを拒んだ。

アーカイブはハノイの非営利団体The Consultation of Investment in Health Promotion (健康とジェンダーの平等に向け活動している)の企画として始まり、2009年、彼女はそれをリードする人材として採用された。その目的は“伝統的な家族”を重んじることの多いベトナムで、思いを隠したり隠されてきたセクシャルマイノリティに関する所有物などをアーカイブしウェブサイトで公開すること。企画を進めるにあたりとにかくたくさんの資料を読んだニュン。新聞記事は図書館で探し、キーワードだけでは見つけられない記事も多く苦労したようだ。しかし面白い発見もあり、「1975年以前の記事でとても興味深いものがいくつかあった」と興奮気味に話す。1975年はベトナム戦争が終戦した年である。

ただモノを集めるだけではなく、それを保存し、情報を整理し公開するという大仕事を苦戦しながらも、実際にやりながら学んでいった。誰かからモノが送られてくることは少なく、話をシェアしてくれた人に直接なにかを提供してもらうようにお願いした。2010年にはレズビアンの人々とその友人たち50人で1日限りの展示を行った。「何ヶ月も準備したけど、1日だけ。メディアなどには告知せずレズビアンコミュニティだけが知っていた」と語る彼女の表情は当時を思い出し生き生きとしていた。

しかし団体の予算の関係もあり、やがてプロジェクトは終了。手元に残ったベトナム中から届いたたくさんのモノは、写真や、恋文、父親から叱られる度に腕を刻んだカミソリなど様々だった。一つ一つにあるストーリーの力強さを知ったニュンは、その後も個人でアーカイブを続けた。

アーカイブの重要性を考えるとこんなことを私は思う。同性愛がタブーの場では、同性間の関係がショッキングなイメージとして静止画のようになり、話がそこで止まってしまう。それが社会の知るレズビアンやゲイのイメージになり、複雑なストーリーは消え、当事者の可能性も狭められる。それでも必ず人間にはそれぞれの時間があり、語ることを許されなかった経験だってある。無知な社会では、それが消えてしまう。いや、消されてしまい彼らの存在すら消えてしまう。

メディアや教科書が当事者の様子を伝えるだけではいけない。ニュンは、当事者自らが経験を語ることが何より重要だと考えている。そうしてモノを受け取り整理するニュンの仕事は広がりをみせ、よりインタラクティブなものへと変化していった。

その後、彼女は展示という形態を選び、他のキュレーターたちと協働で企画を催した。ハノイで2015年に行われた展示では、前年始めに始動した企画がいかに七転八倒したかという話を紙いっぱいに図にして説明してくれた。特定の展示物を取り除くように政府から指示があり従ったが展示をするために必要な政府からの許可証は下りなかった。そのため、多くのギャラリーなどをあたったが直前だったこともあり、展示スペースを貸してくれる団体は簡単には見つからなかった。やっと3日間だけ展示できる空間を見つけるもプロジェクトに参加していたキュレーターたちは展示を拒んでしまう。問題は参加した博物館や美術館職員が検閲の厳しい場で教育をうけ、その日常に生きていることにあった。そのためキュレーションに保守的だったのだ。しかしニュンにとって展示をすることこそが重要だったため、そこで屈するわけにはいかなかった。なんとか、人権問題改善に積極的なスウェーデンの大使館に助けを求め、規模は半減したが2時間だけ展示を行い、のちに内容をさらに調整し、ベトナム芸術大学で展示を行った。

2015年3月に行われたその展示は『The Cabinet』と題された。「展示タイトルは“クローゼット”ではなく、“キャビネット”なの」とニュンは、そこについても注意深く考えるようにと教えてくれた。

また、先日ノーマルスクリーンのイベントに参加してくれたグエン・コック・タインさんが主催するQueer Forever!というアートイベントにもニュンは参加している。そこではベトナムのクィアの人々の間で使われる(使われた)隠語をまとめた『Queer Lexicon』(語彙集)というzineのようなものを制作した。 

彼女のユニークな活動はまだまだ続く。
アメリカで始まり多くの国で上演されている『ヴァギナ・モノローグ』に影響を受けたプロジェクトでは、ヴァギナのイラストを性別とわず描いてもらい、それぞれのヴァギナにまつわる経験やイメージを文章で添えたものを集めている。できるだけ多くの人のストーリーを巻き込みたいという彼女の願いからだった。ヴァギナに新しい名前を与えてもいい。女性だけのものという考えを疑ってみてもいい。「話しにくいことはまず描いた方が話しやすくなるから」とアイデアの背景を説明してくれた。シンプルでありながら、人々が個人的な経験を語りやすくなる工夫とアイデアをどんどんと出していく点もさすがだ。

2015年9月からはトランスジェンダーの人々のストーリーの収集にも力を入れ、同時にHIV感染予防につても語る場を作っている。最近は、ハノイの年配の人と会話を重ね、セクシャルマイノリティが集った場所を調べている。そして、街のなかに点在した居場所のなかった人が追いやられたカフェや公園やハッテン場を地図にした。現在は無くなってしまった場所も多く紹介されるその地図は、彼らが生きた証であり、現在にも続くコミュニティまたはコミュニティがあったという記憶や感覚だという。

忠実さが要ではないそのインタラクティブな“記憶の地図”の試作品を触ったとき、ニュンがキュレーターやアーキヴィストという肩書きに違和感を示した理由がすこし分かったような気がした。クリエイティブに会話のきっかけをつくる彼女はアーティストのようだった。

会話は2016年6月27日、ハノイにて行われました。
Photos © Normal Screen