《前編》ドイツ国立歴史博物館での「ホモセクシュアリティーズ」展はいかにして実現したか。
/《前編》1970年代からの資料収集がすべての始まり
LGBTQに関する展示が、国立歴史博物館で開催されるなんて、想像できるだろうか。 2015年、ドイツ歴史博物館とシュヴルス・ミュージアム(1985年に設立されたLGBTQ+の歴史と文化についてのミュージアム、アーカイブ、リサーチセンター)では、「Homosexuality_ies(ホモセクシュアリティーズ)」展が同時開催された。 そこで展示されたのは、18世紀後半から現在に至るまでの同性愛の歴史、政治、文化に関する幅広い資料の数々。
2016年2月4日、その展示を観て感銘を受けた写真家の間部百合さんが、この展示のディレクター、ビルギット・ボソルド(Birgit Bosold)さんにインタビュー。 この歴史的な展示が実現するまでの経緯を聞いた。
国立歴史博物館での同性愛の展示は「普通」か否か
B(Dr. Birgit Bosold):あなたはベルリンに住んでいるの?
M(Yuri Manabe):いえ、ベルリンに住んでいる子と仲良くしているので、よくベルリンに来るんです。それで、展示を観にきたんです。
B:どうだった?
M:すごくよかったです。びっくりしました。LGBTの歴史や資料をギャラリーで展示することはあっても、国の公共施設であるドイツ歴史博物館でやるなんて、ありえない! って思いました。これって、とてもすごいことじゃないですか?
B:そうですね。社会の真ん中ですからね。
M:それで興奮して、「歴史博物館で同性愛に関する展示をしてるってすごくない?」と ある男友達(ちなみに彼はドイツ人でシスジェンダー異性愛者)に話したら、「そんなに珍しいことじゃないよ。同性愛はすでに社会の一部になっているから」と……。
B:いやいや、この展示はとても特別なことですよ。歴史博物館でやることもそうですし、レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、インターセックスなどの社会から取り残されている人たちをテーマにした、こういう展示は初めてのことですから。
例えば、最近あったドイツ歴史博物館の展示では、7000点もの展示物の中で同性愛者をテーマにした展示物はたった5つでした。多くの作品の中に少しだけ入れても、伝えられないことはたくさん残ります。疎外された人たちの持つさまざまな視点を、包括的に見せるのは難しいと思う。「同性愛に関する展示」を歴史として見せることは、貴重だと言えると思います。
だから、さっきのお友達の意見もすごく興味深いのです。LGBTの人たちは、この展示を観て「特別だ」と言う。でも、異性愛規範的な人たちは、「ああ、普通だよ」って言う。両者のリアクションが違うんですよね。
例えば女性、同性愛者、トランスジェンダー、インターセックス、移民……。そういう社会から取り残されている人たちを、展示の中に少しだけ入れることならできます。でも、今回のようにマイノリティの視点そのものの展示は、10年に1度しかないんです。
だから、もう一度言いますけれどね、これは決して「普通」ではありません。すごく貴重であって、ドイツ歴史博物館の約25年間の歴史の中で、初めての同性愛についての展示なんです。だから、当たり前だなんて、私に言わないでほしいですね(笑)
M:よかった。私もあなたと同じような意見でした。その男性が「珍しくないよ」って言ったことにびっくりしたんです。
B:まあ、ある意味では、今の人たちにとっては珍しくないのかもしれませんね。だって、10年前、20年前は想像もできなかった展示が実現したのですから。近年になって、こういうテーマの展示を国の博物館が行うということが、普通になってきたという状況はあります。でも、日常の中で普通かというと、それは違う。
歴史を残すための第一歩は、収集すること
M:実際どのくらいの時間をかけて、どのような努力の末に、こういう展示が実現したんですか?
B:実現するのには、いろいろなレベルの努力がありました。まずは、シュヴルス・ミュージアム設立の1985年からの働きがあります。30年間のコレクション、ネットワーク、情報、研究といった活動、それ自体が準備と言えますね。
今回の展示物の70~80%は、私たちが積み重ねてきたアーカイブからの賜物です。つまり、シュヴルス・ミュージアムのコレクションから出しています。誰かに頼んだりしていたら、実現できなかったでしょうね。根本的・基礎的なコンテンツのベースがあったのです。
私は30年以上、アクティビストとしてベルリンに住んできて、2006年からこのシュヴルス・ミュージアムの取締役会の一員になって働いています。それで、いくつかの展示をキュレーションしてきました。そして今回、この展示のディレクターとして関わることになったんです。
最初の企画会議は2012年。企画書を出して、2つの大きな芸術財団のサポートを受けることができました。シュヴルス・ミュージアムは、信用ある団体としての価値を持っていたことになります。そして2013年12月に、この展示をドイツ歴史博物館で行うことが決定しました。
会期のスタートは2015年6月。シュヴルス・ミュージアムは多くのアーカイブやネットワークを持っていたので、何とか実現できましたが、準備期間は相当に短いものでした。この大きな歴史の展示をするには、1年半の準備期間は決して十分とは言えませんでしたね。
M:1年半は短いですね。
B:レズアビンアーカイブの『シュピンボーデン』って知っていますか?
M:知りません。 アーカイブ団体だったら『ビルトビクセル』は知っています。
B:ビルトビクセルは、ハンブルグのすごくいいスペースですよね。フェミニスト、クィアアート、ビデオ、フィルム、ビジュアルアートを収集していて、とても大きなアーカイブを持っています。それとは違ってシュピンボーデンは、ベルリンにあるレズビアンに関するアーカイブ団体で、1970年代の半ばには小さくでは収集が始まっていたと思います。現在では大きなコレクションがありますね。一方で、シュヴルス・ミュージアムは大きな博物館で、6000点ものアーカイブを持っています。今回展示したものは、それらの中からのセレクションです。
最初のほうの展示室で、ポルノやボディビルディングなど250点ぐらいの写真やポストカードの展示があったのを覚えていますか? あれは私たちのコレクションの一つで、シュヴルス・ミュージアムの創立者の一人であるアンドレアス・スタンヴァイラーが、80年代に主にフリーマーケットで収集した、トランスジェンダーや男同士の友情関係を写したポストカードです。兵隊たちがお互いを触り合っているポストカードなどもありますね。
M:フリーマーケットでそんな写真を見つけることができるのですか!?
B:ええ。彼は70年代から収集を始めていました。もちろん特別な収集家からも集めていましたが、フリーマーケットで見つけることもできました。展示にも250枚のポストカードがあったということは、当時もっともっと大きなクィアシーンがあったことがわかりますよね。
M:売っている人は、写っているのがトランスジェンダーだと知って売っていたんですかね?
B:たぶん知らずに売っていたんでしょう。
この「収集する」ことの重要性がわかりますか? 集めていなかったら何もできないのです。
M:私は日本のレズビアンの歴史に関するボランティアグループを手伝っていて、歴史を掘り起こすことをとても重要に感じています。でも、歴史として残っていないのですね。日本におけるレズビアンの存在がなかなか見えてこないのです。
B:そうですね。難しいですよね。今回の展示の目的の一つは、このコレクションを見せることでした。同性愛に関する歴史、または追いやられている人たちのグループなどの記録。記録や収集を牽引してきたのはアクティビストたちです。公的な記録には、そういったコレクションはありません。セクシュアルマイノリティは病理化されていたり、国の収集にとって重要視されていなかったりして、記述には残っていないんです。
最初の一歩は情報を集めること。でないと、歴史とは呼べないんです。研究でストーリーを伝えることもできない。アーカイブすること、それを見せることが重要でした。アーカイブを作り出すことや、その中にある政治的なものを、私たちは読み直す必要があるのです。
男性同性愛は違法、女性同性愛は存在しないもの
M:こういった場所づくりや収集のムーブメントが、70〜80年代に始まったのはなぜなんでしょうね?
B:70年代にはフェミニズムのムーブメントがありました。たぶん日本でもそうでしょう?
M:それかーーー!! 何かつながっているのかな? と思ったのです。
B:特にフェミニズムムーブメントとレズビアンムーブメントはつながっています。フェミニストムーブメントの立役者、ラディカルフェミニストの中に多くのレズビアンがいて、彼女たちは大変アクティブだったようです。実はゲイムーブメントが起こり始めた1969年まで、ドイツの刑法175条は男性同士の同性愛を違法にしていました。
M:男同士だけ?
B:そう、男同士だけ。わかるでしょう? 女同士ではセックスできないから。
M:マジですか?
B:女性同性愛は、深刻な問題とは考えられていなかったんですよ。この法律には長い歴史があります。1800年以前には、男性も女性も同性愛は断罪されていました。1871年にドイツが統合される前は、小さな国がそれぞれ違った法律を持っていて、それぞれ違った状況にありました。同性愛を違法とする法律を持っていない、ナポレオンを皇帝とするフランスの影響を受けている小国もあった一方で、プロイセンのようにソドミー法のある小国もありました。こうした混じり合った構造が、統一前のドイツにはありました。そして1871年、プロイセン王国首相ビスマルクが中心となって統一ドイツが生まれたときに引き継がれた刑法175条によって、男性同士の同性愛が違法とされたのです。
ここでなぜ女性同性愛が犯罪とされていないかというと、2つの理由があると思います。1つは、女性は男性のペニスなしではセックスできないと考えられていたから。ペニスがなくたって何だってできますが、それは本物のセックスではないと言うんです。レズビアンポルノもありましたが、それらはレズビアン女性のためのものではなく、ヘテロセクシュアル男性のためのもの。レズビアンは「大人になるまでの準備段階」とか「これは本物のセックスではない」とか「ペニスを持っているのは俺だ」とかそういう理屈で、真剣には考えられてこなかったのです。
もう1つ言えるのは、1871年のレズビアンを含む女性たちは、参政権もなく、働くこともできず、学ぶこともできなかったので、レズビアンライフを築くことが非常に難しかったということです。女性には何の権利もなかったんです。結婚しないで生きること自体が、経済的に難しい時代でした。もし「女性とともに生きたい」と思っても難しい状況があったせいで、犯罪化する理由もなかったということではないでしょうか?
M:レズビアンが存在すること自体が難しかったってことですか?
B:そうです。そういうことです。
犯罪状態からゲイマリッジまで
B:1908年まで、女性は大学で学ぶことができませんでした。女性が働くことや参政権が認められたのは1918年。参政権がなければ政治にかかわれないので、存在しないことになっているレズビアンは政治的な問題にすらならなかったってことです。この時期が第一派フェミニズムのムーブメントの時期なんですね。
第二次大戦後の1970年代の第二波フェミニズムと同じように、レズビアンアクティビズムは多かれ少なかれフェミニズムアクティビズムと関係しています。レズビアンの問題の前に、女性としての基本的な権理の問題と向き合わなければならなかったのです。
M:そうなんですね。1908年に女性が大学に行けるようになって、1918年に働くことが許された後、1920〜1930年代にはすでにサロン文化があったなんてすごいですね。ベルリンの早い時期のゲイ文化って有名ですよね。成熟がかなり早くないですか?
B:そうですね。20年代にはベルリンだけでなく全ドイツにレズビアンとゲイのカルチャーが見られます。この時代に知られた、素晴らしい小説を知っていますか?
M:知りません。
B:クリストファー・イシャウッドは読まないとダメですよ!
M:あ、その人! 『さらばベルリン(Goodbye to Berlin)』。
B:そうそう! あれは、レズビアン、ゲイのサブカルチャーだったと思います。当時はバー、新聞、雑誌、パーティ、サブカルチャーがあったけど、その期間はすごく短かった。1933年あたりにはナチスが台頭してきて、終わってしまいました。その後、ゲイカルチャーが花開くのは第二次大戦後まで待たなければなりませんでした。東ドイツと西ドイツ、2つの形でね。
M:極端ですね。
B:第二次大戦の後、東ドイツと西ドイツは別々の発展を遂げました。東側と西側は、経済的にも政治的にも違っていましたからね。
西側では戦後のバックラッシュが大きかった。50年代は、現在はメルケル首相の所属している保守政党で、カトリック協会とプロテスタントを含むキリスト教の政党である、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)がとても強かったんです。初代連邦首相はアデナウアーで、彼らはキリスト教倫理を新しく設定しました。それは、性に肯定的な姿勢とは真逆のものでした。ナチスによって遂行された古い刑法175条を、新しい民主的社会でもまた存続させて、廃止しようとはしなかったんです。
M:なんだか不思議ですね。東は社会主義に根ざしていたので、男女平等が徹底されていたって、前に聞いたことがあります。
B:そうなんです。西ドイツでは、1969年まで男性同性愛を違法とし、ナチスと同じく男性同性愛者を投獄していました。つまり、男性同性愛への厳罰がなくなったのは、1949年に西ドイツがドイツ連邦共和国として成立してから、20年も経ってからのことだったのです。
東ドイツでも刑法175条は存在していましたが、実際には刑は執行されていませんでした。つまり、どちらかというと東ドイツにいた男性同性愛者のほうが楽だったのです。西ドイツでは、はっきり犯罪として扱われていましたから。民主的な社会で、同性愛を理由に投獄するって信じられますか?
M:信じられませんね。私はどちらかというと西ドイツの資本主義のほうがいい社会だったのかと思っていましたから。自由がないと言われていた東ドイツの社会主義の社会より、西ドイツのほうが同性愛に対する扱いが酷いだなんて皮肉です。
でも、同性愛が犯罪とされている中で、どうやってゲイカルチャーが育ったのですか? ベルリンのゲイカルチャーは世界でも指折りですよね。
B:日本には同性愛を犯罪とする法律はないと思いますが、社会の差別はありますよね? 例えば60年代ごろに、同性愛者であることをオープンにするのは難しかったのではありませんか?
M:はい。まあでも、同性愛者やクィアの存在はありましたよね。江戸時代ごろにも、僧侶や武士の世界などにそういう人たちがいたという記述や絵図が残っていますよ。特にトランスベスタイト(異性装)の人たちとか。
B:それは特殊な社会においてでしょう?
M:そうですね。表には出てこなくても、アンダーグラウンドシーンにはたくさんいました。
B:そう、公式と実際とは違いますよね。たとえ公には禁止されていても、サブカルチャーとしてはたくさんのコミュニティや文化が存在している。それは、1950〜60年代のドイツも同じです。でも、公の評判になるリスクは付きまとってはいましたから、確かに難しかった。公になれば牢屋に入れられる可能性があったわけですから。
M:わー、強烈です。
B:まあ、最悪の場合ね。
70年代には第二のゲイムーブメントが起こり、大人の男性同性愛に関しては法に問われなくなっていきました。同時期に第二波フェミニズムムーブメントが始まった。そこからは、たぶん日本でも同じではないですか?
ゲイムーブメントは1969~1970年ごろから始まり、今に至る成功をしてきました。今では、準同性婚に相当する生活パートナーシップ法まで勝ち取った。異性愛カップルとまったく同じとは言えなくとも、同性カップルのパートナーシップは合法で公式なステータスとして認められています(2017年には同性婚が実現)。考えられますか? 40年前に違法だったものが今では合法となり、ドイツの歴史の一つとなっているのです。これが可視化、「社会の一部になった」ということです。それは大きな成功と許容ですよ。