『叫ぶヤギ』解説:空っぽな同じ時間

特集:クィア東南アジアの今 その声のいくつか
Unmasked Queer Voices from Southeast Asia Today

Sho Akita | October 27, 2021

私は2016年6月に、国際交流金アジアセンターのリサーチフェローとしてバンコクを訪れ、現地のアーティストやキュレーターに会い、彼らが集う空間を訪問する機会も得た。“タイのクィアの映像作家”といえば私のなかではアピチャッポンではなくタンサカだった。2000年ごろから精力的に発表されてきた彼の作品をまとまったかたちで観ていたわけではなかったのに、なぜそう思ったのか。彼の作品でよく登場する若い男性の裸のイメージが頭にこびりついていたからかもしれない。

直接会いたいと彼にEメールで問い合わせ、バンコク市内からバスで1時間半ほどのタイ・フィルム・アーカイヴで、会うことになった。彼はここで、小さなクルーとテレビ番組の撮影をしていた。私が到着するなり休憩がてら話をしてくれたタンサカは、正直、見た目は怖いが、話すとむしろシャイな印象。

しかし、このとき彼は、タイ政府から目をつけられないように、あるいは既に目をつけられているからか、あまり自身の情報をださないようにしていると言い、作品についてもそこで撮影していた“テレビ番組”のことも詳しくは話してくれなかった。しかし、作品の多くを鑑賞させてくれた。現在でも私は新作が出れば見せてもらっている。

彼が丁寧に話してくれたのは、ナショナリズムの始まりについての考察が書かれた『想像の共同体』で知られ、東南アジアの研究者でもあったベネディクト・アンダーソンのことだった。直接交流のあったアンダーソンにいかに影響を受けたか、という話だったと思うがアンダーソンの名前をだすゲイのアーティストがこの調査の間だけで他にも2人ほどいたことも私には印象に残っている。アンダーソンが逝去したのがその半年前、2015年の末だったことも関係があるのかもしれない。

タンサカが日本で『叫ぶヤギ』の上映のために来日した際にも述べているように、彼は本作の撮影地パッターニー県にも近いパダンベザール出身だそうだ(私が会ったときには幼少期だけをそこで過ごしたと言っていた)。それなのになぜ主にバンコクやその周辺だけで撮影をするのか、なぜタイ南部で作品を作らないのかをアンダーソンに問われたことをきっかけに、タンサカはタイの抱える国境付近の問題を通し、タイ王室や政治の闇をあつかった作品を積極的に手がけ始める。

彼の複雑な作品群を簡単な説明にまとめることはできないが、多くの作品が、ナレーションはないがそれがテキストで映像に現れるドキュメンタリーや、簡単な設定(例えば、被写体が生徒、カメラが先生など)を登場人物らが共有した状態で撮られた映像をドキュメンタリーとして完成させたりと、実験的に編集されている。詩のようなテキストが映像上に表示されることも少なくない。2014年には劇映画にも挑戦し『Supernatural』を発表している。

2009年に発表された『This Area Is Under Quarantine』あたりの作品からは、宇宙を意識させられる壮大なイメージやSF的な作品が多い。その一方、タイ国内で過去に起こったとされる(でもあまり知られていないと思われる)軍事政権や権力者による虐殺など、目を覆いたくなるほどおぞましい写真やアーカイヴ映像が多く映し出され、その背景説明もテロップで明確に表示されたりする。そしてほぼ全ての作品で、若い逞しい男たちが登場する。彼らは、ときに昔のコカコーラのCMのモデルのように海岸で爽やかに笑い、別の作品では暗い部屋で今にも殴りかかってきそうな目でカメラを睨む。母親、セックス、軍、豊かな景観。あるゲイのプライベートな時間、公けの空間での時間。それらの視線や映像が挑発的にモンタージュされる。制限される表現とタイの主流文化で消されるイメージ。その監視と抑圧を跳ね返すように激しく絡み合う身体を見せたり、汗を弾く肌を欲望のままに長回しで見つめる。

しかし『叫ぶヤギ』は違う。『叫ぶヤギ』は実は、2017年にタンサカが注目の若手アーティストのハリット・スリッカオと共同で監督した103分の長編ドキュメンタリー 『Homogeneous, Empty Time』の一部分だ。クーデターが起きた2014年とプミポン王が亡くなった2016年の間に撮影されている。タイトルはアンダーソンが引用したベンヤミンの言葉「均質で空虚な時間」(empty, homogeneous time) からきている。

予告映像の印象とは違い、この映画本編ではとてもゆっくりと目の前の状況を見せるシーンが多い。大きく分けて4つの異なる生活や視点をもった集団の日常を丁寧なインタビューと撮影で順に見せていき、ところどころにそれらの人々を覆う君主制と軍の存在がテレビニュースや街の広告などで挿入され、権力側による市民への暴力の歴史も時に寓話または怪談のように言及される。

他には、キリスト教系の男子寮、士官学校(軍学校)、仏教の名の下に王室を崇拝する集団が登場する。映画冒頭、キリスト教系の寮でふざける少年たちは、夜はサッカーの試合をテレビで観戦するも突如はじまる軍政府のPRに文句を言い、リラックスした雰囲気だ。士官学校も一見少年たちは生き生きとしているように見えるが、そのシークエンスの終わりには学校内の暴力事件の証拠写真も大量に映画は見せる。王のために集う人々の様子は、カルトのようである。穏やかな夕方6時、国歌が流れ、止まる。

『叫ぶヤギ』の撮影地であるパッターニー(パタニ)では、タイ全体ではマイノリティであるマレー系ムスリムの人々が人口の8割だ。登場するカップルは、ムスリムではないアンティチャー・セーンチャイとダーラーニー・トーンシリだ。二人は、BUKUという本屋を2011年にひらき、さらにジェンダーやセクシュアリティや人権に関して学ぶセミナーも開催しているという。映画にも少し映るサッカーは、彼女らの活動の一部であるBuku Football Clubで、現地の女性が参加しやすい環境を作りトーナメントでも競っている。クラブには現在、レズビアンやバイセクシャルであることをオープンにする10代もふくむ70人以上のメンバーがいる。その集まりを通しジェンダーやセクシュアリティをとりまく問題を訴え、性に関する健康の知識などを深めながら、活動をしている。

アンティチャーは本作上映のために来日した際にこう語っている。「(『叫ぶヤギ』で語られることは)実際に起こったことなのですが、タイでは真実を語ることができません。」

2020年のデモが起こったバンコクだけではなく、それ以外のタイの地域のことを、タンサカの作品ともに今後も注目したい。

参考:

・タイ現代文学覚書 44 「個人」と「政治」のはざまの作家たち(福冨渉 著|風響社)) http://www.fukyo.co.jp/book/b341368.html)

・Football in hijab: Thai Muslim lesbians tackle stereotypes (Reuters | Nov. 20, 2020) https://jp.reuters.com/article/us-thailand-lgbt-sport/football-in-hijab-thai-muslim-lesbians-tackle-stereotypes-idUSKBN28A0BR 

・情報提供:坂川直也さん

・2016年に秋田がバンコク訪問時に話を聞いた他のアーティスト ジャッカイ・シリボは、国境沿いの村タクバイで起こった事件をもとに作品を制作している。http://normalscreen.org/blog/jakkais 

本記事公開日:2021年10月27日
編集協力:Jun Fukushima(Political Feelings Collective
写真:Sleep of Reason Films