エッセイ:フウン姉さんの最後の旅路(グエン・クオック・タイン寄稿)

特集:クィア東南アジアの今 その声のいくつか
Unmasked Queer Voices from Southeast Asia Today

2021年12月26日まで配信中の映画『フウン姉さんの最後の旅路』について、ノーマルスクリーンのために本作を選んでくれたアーティスト&キュレーターのグエン・クオック・タインさんが映画についてエッセイを書いてくれました!映画の鑑賞前か後にぜひ読んでみてください。

映画は12月26日まで以下の2つのページから鑑賞できます (割引あり):
Peatix▶︎https://madamp.peatix.com/
Vimeo▶︎https://vimeo.com/ondemand/madamp
いずれも内容は同じです。

Text by Nguyễn Quốc Thành

観客への新年の祝いを伝える前に、フウン姉さんは「身近にある幸福」という曲を歌う。照明とカメラレンズの角度でステージも真っ赤に見え、彼女の体に密着する水着形のドレスも赤く、肌の見えるビーズの紐はキラキラ輝く。そのボレロは離婚と子供の幸せとの間で引き裂かれる女心を示す曲なのに、観客はその不幸な女の本音が聞き取れないようだ。カメラは観客の男性や女性や子供の顔を捉える。その顔は困窮や生活の疲れを伺わせると同時に明るい笑顔もみえる。

あけましておめでとう!かつて南部と中部のテト(旧正月)にお祭りの盛り上がりを与えたビンゴ大会のコンサートがはじまる。中部沿海部に伝わるバイチョイというカード引きの祭に似ているが、カードの代わりに数字を使い、「何番だろう、何番かな?」などとくじを買わせるよう客を歌でひき寄せ、当たりを歌で読みあげる。賞品が当たればうれしいが、それだけではない。このお祭りには西洋の遊園地のように回転ブランコや射的もある。夜の賑やかな西洋の音楽の中、遠くから来た芸能の人はお洒落な(凝った)メイクと挑発的できらめく衣装で歌い、踊る。大勢の人の間を、ファッションショーでキャットウォークをするかのようにクジを売る。

ビンゴのあるお祭りといえば、風変わりな美しい女性歌手のことを連想するようになったのはいつ頃からなのか。そのことについては映画は触れない。 ベトナム南部で、西洋からもたらされた遊戯と伝統文化を併せ持つテトがいつから楽しまれるようになったかも、述べられない。

コンサートが終わった地方のある静かな夜。喧嘩中のいたずらっ子たちを叱っているフウン姉さんの声だけが響く。ビンゴ売りのメンバーの映像は、光量不足のためにぼやける。体格のいい少年、背の高くすらりとした少女、ベテランの名歌手の人たちは一同座り、予測不能な未来の旅で起こることをハラハラと待ち構える。 

フウン姉さんとハン姉さんの会話から、彼女らはビンゴの人気が絶頂期をむかえた1980年代に旅芸人の生活を始めたことがわかる。この映画が捉えるのは、ビンゴ人気が下り坂になった後の、田舎にいる人が昔のように賑やかにテトを楽しむことがなくなった2010年代始めの様子だ。最初のシーンで掃除係、設営、屋台や小屋などがカメラの前に現れ、カメラの後ろの監督の声も登場する。

彼女は幼いころを回想する。親と一緒に建設現場に通い、小屋に住み、祭りの一団と会っていた。気分屋で、お洒落な服を着て何も恐れず非常に変わった人たちを遠くから興味と怖れを抱きながら見ていた。監督は過去の思い出を語るだけではなく、スクリーン上の出来事にも言及(または再現)しているのかもしれない。このドキュメンタリーに含まれる彼女の話と彼女が映すドキュメンタリーの話は分かちがたく、ともにあばら屋での生活、変わった人々、中部・南部や赤土の中部高原の農村への旅路を表現する。

彼女の幼い頃の話は、突然そこで止まり、なぜそれ以上話されないのか。もしかしたら、それらの記憶も、まさに監督のカメラレンズや語りで記録される現実だからかもしれない。ナレーションは過去と現在を混ぜ合わせ、思い出を現実に溶け込ませ、切り分けられない。

その最初のシーンから、直接的な方法(ダイレクトシネマの手法)をとるこのドキュメンタリー は、現実と演技あるいはドキュメンタリーとフィクションとの境界のぼやけ(あいまいさ)を見せるだけでなく、さらには映画と人生も切り離せないものであることを示している。

映画は、フウン姉さんのビンゴ団の活動とトランスジェンダー女性の団員のパフォーマンス/“演じる姿”を隠すことなく捉えている。 登場人物たちは客の前やステージの上で踊りを披露するだけではなく、現実の生活でも、カメラがあるときもない時も、演じ続ける。

さらに、本映画ではフィクションのような劇的なことがまるで用意されたかのように起こり、話が展開する。人の運命というのは決まっているから、逆らうことはできない。 かつて輝いていたビンゴ団はひどい目に遭い、フウン姉さんは落ち込んでしまう。監督は、カメラで映しきれなかった最後の旅をナレーションで語り、映画は終わる。    

劇場の明かりがついた時、映画は実に悲しいものだったにもかかわらず、私たちはいつものように拍手を監督に送った。ベトナム・ヨーロッパドキュメンタリー映画祭での上映は満席となり、若者から引退したお年寄りやドキュメンタリー製作者やハノイでのLGBT擁護団体の委員まで出席した。

監督と招待されていた一座のメンバー、ゴック・フンとの交流のために多くの人が上映後も残った。主人公がトランスジェンダーの映画が主流どころか社会現象になると誰が想像しただろう。その上映から数ヶ月後、ブループロダクションによりハノイとサイゴンでも上映され、大きな歓声を引き起こした。

これまでのベトナムでは、ドキュメンタリーのためにチケットを買う人はほとんどいなかった。ましてや、これは国内のインデペンデントの監督によるもので個人的な興味から生まれた作品であり、商業目的でも社会運動のためのものでもなかった。

簡単には観られなかった小さなドキュメンタリー映画を観客たちが映画際の輪から引っ張り出したとも言える。もしかしたら、本作の鑑賞者は監督と登場人物たちが浴びたあの強い舞台照明と暗い夜の道路灯の光を彼らと同じように浴びたかったのかもしれない。

 

『フウン姉さんの最後の旅路』の詳細と配信情報についてはこちら:https://normalscreen.org/events/madamphung

タインさんは、ハノイの団体Nhà Sàn Collective(来年の「ドクメンタ15」に参加)やQueer Forever!(クィアアートフェスティバルを2013年より開催し、検閲の厳しいベトナムで国内外の作品を紹介しトークイベントなども催している)に関わり展示やイベントを積極的におこなっています。 ノーマルスクリーンでは、2017年にタインさんを迎えて東京で上映も行いました:http://normalscreen.org/events/queerforever 

(タインさんの名前は、過去にはグエン・コック・タインと表記していました) 


本記事公開日:2021年12月8日
翻訳:チャン ティ トゥイト ミンさん
編集協力:小田ならさん


スコールが通り過ぎるのを待つように。 東南アジアの性的少数者映画をめぐる近況

特集[クィア東南アジアの今 その声のいくつか]のために、東南アジア圏の映画を研究/調査されている坂川直也さんに、東南アジアにおける近年のクィア映画の状況について寄稿いただきました!リンクをひらき予告映像などを見ながら、ぜひ読んでください。

スコールが通り過ぎるのを待つように。

東南アジアの性的少数者映画をめぐる近況

 坂川直也 Naoya Sakagawa
 2021年11月19日

2021年4月に出版された『東南アジアとLGBTの政治——性的少数者をめぐって何が争われているか。』(明石書店)に、第二章「現代東南アジアにおける性的少数者映像、その類型化の試み」という論文を寄稿した。その関連で、今回、ノーマルスクリーンの秋田祥さんから、「特集:クィア東南アジアの今 その声のいくつか」に関連して、東南アジアの性的少数者に関する映画の近況を書いてもらいたいという依頼を受け、論文以降、どういう動きがあったのかを書いてみたい。

「現代東南アジアにおける性的少数者に関する映像、その類型化の試み」で、性的少数者に関する映像をめぐる公共性について検討した。性的少数者に関する映像の公共性を検討する基準として、①アカデミックな研究、②性的少数者に関する映画祭、③国内映画祭での受賞歴の有無を用いた。そして、論文では以下のような暫定的な判断を書いた。

「東南アジアで性的少数者映像をめぐる公共性が最も高い国はタイとフィリピンで、ベトナムがそこに追いつこうとスピードを上げている。インドネシアはここ二、三年で後退し、そのインドネシアを、最近、BL(ボーイズラブ)ドラマを制作するようになったミャンマーが追い越そうとしている。」

今からすると、もっとも大きく変わったのはミャンマーの情勢である。2021年2月1日に起きたミャンマーのクーデターは、『東南アジアとLGBTの政治』の出版前ではあるが、論文の執筆後だった。現在のミャンマーでは、性的少数者に関する映像ももちろん、劇映画全般を制作するには困難な情況で、制作されるとすれば、ドキュメンタリーもしくはニュース映像に限定されるだろう。今回の特集で配信された『シンプル・ラブストーリー』(ミャンマー 2017年) は、日本での最初の上映は京都大学東南アジア地域研究研究所「Visual Documentary Project」(VDP)、2020年「愛」特集だった。私は近年、VDPの予備審査を担当していて、ミャンマーから『シンプル・ラブストーリー』以外にも、性的少数者に関するドキュメンタリーが多数応募され、やはり、ミャンマーとタイの隣国で、性的少数者に関する映像の創り手たちがたくさんいたんだなと感動した覚えがある。しかし、インドネシアを追い越そうとしていたミャンマーもクーデターによって、性的少数者に関する映像を制作できる環境から遠のいてしまった結果に、インドネシアの後退同様に、東南アジアの政治体制における不安定さが性的少数者に関する映像をめぐる公共性に影響を及ぼしていることを痛感した。




 東南アジアで性的少数者に関する映像をめぐる公共性が最も高い国は依然、タイとフィリピンで、今回の特集で、この両国の作品が配信されている点でも裏付けされている。論文で「東南アジアにおける性的少数者映像の最新潮流である、BLドラマ」と述べたが、「タイ沼」という言葉が広がるほどに、タイ発のBLドラマは、日本でも動画配信サービスなどで人気を博している。さらに、「フィリピン発BLドラマシリーズ「GameBoys(ゲームボーイズ)」の続編にあたる映画『ゲームボーイズ THE MOVIE ~僕らの恋のかたち~』が、2022年1月21日に公開される

ちなみに、この『ゲームボーイズ THE MOVIE ~僕らの恋のかたち~』は、 第8回台湾国際クィア映画祭(TIQFF)2021のクロージング作品にも選ばれている。『ゲームボーイズ THE MOVIE』のエグゼクティブ・プロデューサー、そして共同脚本家に、『ダイ・ビューティフル』(2016年)のジュン・ロブレス・ラナ監督が入っているのが興味深い。ラナ監督は『ダイ・ビューティフル』以降も、バクラをめぐるコメディ映画『The Panti Sisters』(2019年 ブラザーズではなく、シスターズというところがミソ)、アジア映画サイトAsian movie pulse選出「アジア発偉大なモノクロ映画25」の10位 、HIVに感染した15歳の少年が主人公の『Kalel, 15』(2019年)、クリスマス公開予定の最新作でコメディ『Big Night』(2021年)など 硬軟交えた性的少数者周辺の映画を監督しているので、日本未公開なのは惜しい気がする。





 タイとフィリピンの性的少数者に関する映像をめぐる公共性の高さは、トランス女性監督の活躍からも伺える。タイからは、上映会『QUEER VISIONS 2018』で、秋田さんと私が解説したプログラム「映画監督ノンタワット・ナムベンジャポンが過去16年から選んだタイのクィア短編5 本、87分。」で上映された『ディープ・インサイド』のタンワーリン・スカピシット監督は、その後、タイ初のトランスジェンダー国会議員になった。 『エロティック・フラグメンツ 1、2、3』のアヌチャー・ブンヤワッタナ監督(長編『別れの花』)は、HBO Asia初のタイ語オリジナルシリーズのドラマ『Forbidden』を共同監督、GMMTVのBLドラマ『Not Me』 (2022)の監督をされる。フィリピンからは、イザベル・サンドバル監督がニューヨークを拠点に活躍されている。彼女の現時点での代表作と呼べる『LINGUA FRANCA』(2019年)を始め、彼女の長編作品は日本で上映される機会に恵まれていない。彼女のツィッターは示唆とウィットに富んでいるので、彼女の本格的な紹介が日本でなされることを願ってやまない。もっとも、タイとフィリピンにおいてさえ、論文で、「トランスジェンダーを取り上げた作品においても、トランス男性よりも、トランス女性を取り上げた作品のほうが圧倒的に多い」と書いた状況は、いまだに変わっていない。






 同様に、今回の特集で配信された、タンサカ・パンシッティウォラクン監督『叫ぶヤギ』(2018年)のように、女性同士のカップルを取り上げた作品はタイにおいてもまだまだ少ない。余談だが、Asian Film Joint 2021のフォーラム「02. 2564年のタイとインディー映画」の配信を視聴していたら、ドンサロン・コーウィットワニッチャー(映画評論家/プロデューサー)さんのプレゼンで、政治について語ってきたタイのインディペンデント映画のうち、タイ国内で上映禁止もしくは困難だった作品4本を紹介されていて、うち2本が、『QUEER VISIONS 2018』でタイのクィア短編を選んだ、ノンタワット・ナムベンジャポン監督『空低く 大地高し』(2013年)と、『叫ぶヤギ』のタンサカ・パンシッティウォラクン監督の長編『Supernatural』(2013年)だった。秋田さんと京都でお会いした時に、タンサカ監督の作品、特に長編はタイ国内で公式に上映は難しいが、果たして、日本国内でも上映可能でしょうかという話をしたことをふっと思い出した。つまり、性的少数者に関する映像をめぐる公共性の高いタイにおいても例外はあり、政治的な作品、性器が映っている作品は上映が難しい。さらに、日本において、タイの性的少数者に関する映像作品上映と比較した場合、フィリピンは未上映作品が多い。もちろん、作品数自体が多いのもあるが、フィリピンのBLドラマの紹介とともに、フィリピンの性的少数者に関する映像作品の紹介も増加するのか、注目している。







 タイとフィリピンに追いつこうとスピードを上げているベトナムだが、男性同性愛映画『こんなにも君が好きで -goodbye mother-』(2019年) まで日本で配信されて、驚いた。ベトナムでは、性的少数者の映像作品は増えている。たとえば、『こんなにも君が好きで』主演俳優ライン・タインが出演した映画『姉姉妹妹』(2019年)、『ソン・ランの響き』の主演リエン・ビン・ファットが出演、『Mr.レディMr.マダム』(1978年)と原作が同じ、ラブコメディ『Butterfly House』(2019年)、そして、今回の特集で配信されている『フウン姉さんの最後の旅路』(2014年) を劇映画化した『ロト』(Lô Tô 2017年)など、性的少数者の姿を「親しみのある隣人」として描こうとする娯楽映画も増えている。特に、『ロト』と『Butterfly House』を監督した、フイン・トゥアン・アイン(Huỳnh Tuấn Anh)は注目すべき監督かもしれない。インディペンデント映画のほうでも、『第三夫人と髪飾り』のアッシュ・メイフェア監督はトランスジェンダーの若者を主人公にした長編『SKIN OF YOUTH』を制作中で、ノーマルスクリーンで以前『赤いマニキュアの男』(2016年)が上映された、チューン・ミン・クイ監督(『樹上の家』他)は、初老のゲイを主人公とした短編『Les Attendants』(The Men Who Wait 2021年)を撮った。しかし、2021年はコロナ禍でベトナム映画の制作本数、上映本数が減少することが予想されるので、性的少数者の映像作品にもどのような遅延や停滞をもたらすのか、先行きは不透明である。








 インドネシアでは、すっかり性的少数者に関する映画が制作されなくなってしまった。2002から2017年まで続いた「Q! フィルムフェスティバル」の休止が象徴的だった。Q! フィルムフェスティバル休止に関する、創設者John Badaluの声明文に、インドネシアにおける性的少数者に関する映画祭関係者、そして映画人たちが置かれた苦境が伺える。 ちなみにJohn Badaluは、先に述べた、タイのアヌチャー・ブンヤワッタナ監督による長編『別れの花』(2017年)、ベトナムのチューン・ミン・クイ監督による短編『Les Attendants』(2021年)のプロデューサーでもある。ただし、インドネシアにおける性的少数者映画をめぐる苦境は現在も変わらず、今にして思えば、ガリン・ヌグロホ監督『メモリーズ・オブ・マイ・ボディ』(2018年)が最後の輝きだったかもしれない。論文で取り上げた、ルッキー・クスワンディ監督にしても、ゲイに関するシットコム『CONQ』(2014年)、短編『虎の威を借る狐』(2015年) あたりがピークで、性的少数者というテーマからは退っていった。また、インドネシア映画史上初めてゲイというテーマに正面から取り組んだ『アリサン』 (2003年)で、知られる女性監督ニア・ディナタの最新作『恋に落ちない世界』(2021)もネットフリックスで10月から配信が始まった。脚本はルッキー・クスワンディ監督との共同で、近未来のディストピアSF映画である。ニア・ディナタとルッキー・クスワンディの共同脚本と言えば、ルッキー監督が女性同性愛者のカップルを主軸に据えた群像劇『太陽を失って』(2014年)の頃ではあれば、次は性的少数者のテーマにどう取り組むのか、わくわくしただろう。『恋に落ちない世界』は17歳前後の未婚である少女3人組を主人公にした、女性の自立を観客に問いかける女性映画である。そして、『メモリーズ・オブ・マイ・ボディ』と制作会社Fourcolors Filmsも、プロデューサー(イファ・イスファンシャ監督)も同じで、第22回フィルメックスで上映された、ガリン・ヌグロホの娘であるカミラ・アンディニ監督の最新作『ユニ』(2021年)も、高校の最終学年に通う、未婚の少女を通して、女性の自立を観客に問いかける女性映画だった。ちなみに、『ユニ』に出演している女優アスマラ・アビゲイル(1992年~)は、『恋に落ちない世界』にも出演していて、彼女はガリン・ヌグロホ監督『サタンジャワ』(2016年)主演女優でもある。

さらに、2017年の東京国際映画CROSSCUT ASIA提携企画「カラフル! インドネシア2」の『インドネシア短編映画傑作選』で上映された短編『申年』(2016年)の新鋭監督レガス・バヌテジャ監督(1992年~)による、長編デビュー作『PENYALIN CAHAYA (Photocopier) 』は、パーティに参加し、意識を失った大学生の女性が、自撮りした写真をネットで拡散され、幼なじみと自撮り写真流出とパーティの夜の真相を明らかにするミステリーで、2022年1月13日にネットフリックスで配信予定である。このように、インドネシアの先鋭的な監督たちがこぞって最新作で、10代後半の少女たちを主人公に据えている点で共通していて、注目に値する。つまり、インドネシアでは、性的少数者に関する映画が制作されなくなってしまったが、代わりに10代後半の少女たちという主題が台頭してきた。彼女たちが直面する苦闘や葛藤を映し出すことで、社会的弱者への暴力、理不尽を浮かび上がらせ、観客に問いかける作品は健在であると言えるだろう。時代の潮流と制約の中で、性的少数者という題材が10代後半の少女たちへと変化したのだ。これらの少女たちの映画が、将来の性的少数者に関する映画のさらなる飛躍につながるのか、単なる退潮や衰退に終わるのか、現時点では正直、予想がつかない。しかし、個人的には、インドネシア、そして、ミャンマーにおいて、性的少数者の映像作品が復活する日を待ち望んでいる。スコールが通り過ぎるのを待つように。




 

『ビン君の花園』について(グエン・クオック・タイン寄稿)

特集[クィア東南アジアの今 その声のいくつか]のためにベトナムの作品を2つ、ハノイを拠点にするアーティスト/キュレーターのグエン・クオック・タインさんに選んでもらいました。その1つ、グエン・ズイ・アイン監督の『In Bloom ビン君の花園』日本初公開にあわせ、寄稿してくれたエッセイを日本語に翻訳して公開します。



Text by Nguyễn Quốc Thành



 

まず、画像のリアリズムがオフになる。映画が始まると画面は真っ黒になり、白い文字で説明的なテキストが表示される。そして、現実か幻想にいるか分からないような渡り鳥の鳴き声だけが聞こえる。現場の音そのものが2つ目のシーンで消えたとたん、鮮やかな深紅のバラが真ん中に現れ、画面の大部分を占める。花の周りの背景はボケ表現の効果でぼやけはじめる。そこでは空間も時間も分からない。3つ目のシーンに入り、紫色の植木鉢に放物線状の水が注がれ、4つ目のシーンでカメラが移動しキャラクターに着目し瞬間に花園と庭師がはっきりと見えるようになる。「ここは遥か昔にできた、私の花園」と彼が言う。

彼の名前はビン。北部の田舎の伝統とカトリック教会の文化が混ざり合った農村に住んでいる。ナムディン省のハイハウにあるこの花園は教会の二つの塔の陰に咲いている。鳥のさえずりはない。花卉園芸から夕食、聖歌の練習、歌と踊りのスキル、そして彼がオンラインで知り合った恋人のことまで、彼はとりとめのない話をしている。そして、カトリック教会における同性愛者に対する恐ろしい罰についてのこと。彼は微笑みながら語る。夜、彼氏の話をしているところに賛美歌が割り込んでくる。カメラは浮いているかのように、教区民の顔、彼らが歌を練習している部屋、神の祭壇の上をなぞっていく。すぐ隣の小部屋で、ビン君はイヤホンをつけてコンピューターの画面を見つめている。彼は全く別のことに忙しいようだ。もしかしたら、恋人とおしゃべりしているのかもしれない。





ズイ・アイン監督の本作の登場人物は社会的ドキュメンタリーのキャラクターとして実に魅力的な存在だ。 とてもロマンチックな花農家で同性愛指向をもつカトリック信者であると同時に、北部の田舎の家族の長男。現代の大都市に住む人/学生、ジゴロや芸能人や金持ちなどというベトナム映画の一般的な同性愛者のモチーフとは、かけ離れたキャラクターだ。そうした映画のモチーフは社会のステレオタイプとさほど変わらず、そうした役に登場人物を閉じ込めてしまう。長男というのは、結婚して子供をもうけて家系を継ぐという話と無縁でいられない。カトリック信者に対しては、男同士の恋愛は秘密の話だ。しかし、ズイ・アイン監督は、キャラクターを明確に定義することを避けている。鏡に反射するビン君と彼の声の両方によってビン君が「複製」される箇所では、現実が虚構によって複製される。映画の冒頭の2つのシーンが別の物語、すなわち映画の物語を呼び起こす。それは日常の記録から夜の風景への移り変わりの再現である。ビン君は蚊帳を下ろして眠り、超現実的なイメージや音、そしてエロティックな夢に耽溺する。映画は登場人物を現実から夢へと導く。 映画の冒頭の鳥のさえずりは、その夜の夢の中で魔法のように繰り返され、時間を遡ってこだまし、現実の昼間のシーンをロマンチックで空想的な魅力あるものにしている。





グエン・クオック・タイン
ハノイを拠点に写真からパフォーマンスまで幅広いメディアで表現するアーティスト&キュレーター。ポーランドのワルシャワ大学で修士号を取得。ハノイでアーティスト集団Nhà Sàn Collectiveに所属し活動する傍ら、Queer Forever!というクィアアートフェスティバルを2013年より開催し、検閲の厳しいベトナムで国内外の作品を紹介しトークイベントなども催している。2014年には日本国際パフォーマンスアートフェスティバル(ニパフ)で来日し東京、長野、宮崎でパフォーマンス作品を発表。



本記事公開日:2021年11月10日
翻訳:チャン ティ トゥイト ミンさん
編集協力:小田ならさん

 

『叫ぶヤギ』解説:空っぽな同じ時間

特集:クィア東南アジアの今 その声のいくつか
Unmasked Queer Voices from Southeast Asia Today

Sho Akita | October 27, 2021

私は2016年6月に、国際交流金アジアセンターのリサーチフェローとしてバンコクを訪れ、現地のアーティストやキュレーターに会い、彼らが集う空間を訪問する機会も得た。“タイのクィアの映像作家”といえば私のなかではアピチャッポンではなくタンサカだった。2000年ごろから精力的に発表されてきた彼の作品をまとまったかたちで観ていたわけではなかったのに、なぜそう思ったのか。彼の作品でよく登場する若い男性の裸のイメージが頭にこびりついていたからかもしれない。

直接会いたいと彼にEメールで問い合わせ、バンコク市内からバスで1時間半ほどのタイ・フィルム・アーカイヴで、会うことになった。彼はここで、小さなクルーとテレビ番組の撮影をしていた。私が到着するなり休憩がてら話をしてくれたタンサカは、正直、見た目は怖いが、話すとむしろシャイな印象。

しかし、このとき彼は、タイ政府から目をつけられないように、あるいは既に目をつけられているからか、あまり自身の情報をださないようにしていると言い、作品についてもそこで撮影していた“テレビ番組”のことも詳しくは話してくれなかった。しかし、作品の多くを鑑賞させてくれた。現在でも私は新作が出れば見せてもらっている。

彼が丁寧に話してくれたのは、ナショナリズムの始まりについての考察が書かれた『想像の共同体』で知られ、東南アジアの研究者でもあったベネディクト・アンダーソンのことだった。直接交流のあったアンダーソンにいかに影響を受けたか、という話だったと思うがアンダーソンの名前をだすゲイのアーティストがこの調査の間だけで他にも2人ほどいたことも私には印象に残っている。アンダーソンが逝去したのがその半年前、2015年の末だったことも関係があるのかもしれない。

タンサカが日本で『叫ぶヤギ』の上映のために来日した際にも述べているように、彼は本作の撮影地パッターニー県にも近いパダンベザール出身だそうだ(私が会ったときには幼少期だけをそこで過ごしたと言っていた)。それなのになぜ主にバンコクやその周辺だけで撮影をするのか、なぜタイ南部で作品を作らないのかをアンダーソンに問われたことをきっかけに、タンサカはタイの抱える国境付近の問題を通し、タイ王室や政治の闇をあつかった作品を積極的に手がけ始める。

彼の複雑な作品群を簡単な説明にまとめることはできないが、多くの作品が、ナレーションはないがそれがテキストで映像に現れるドキュメンタリーや、簡単な設定(例えば、被写体が生徒、カメラが先生など)を登場人物らが共有した状態で撮られた映像をドキュメンタリーとして完成させたりと、実験的に編集されている。詩のようなテキストが映像上に表示されることも少なくない。2014年には劇映画にも挑戦し『Supernatural』を発表している。

2009年に発表された『This Area Is Under Quarantine』あたりの作品からは、宇宙を意識させられる壮大なイメージやSF的な作品が多い。その一方、タイ国内で過去に起こったとされる(でもあまり知られていないと思われる)軍事政権や権力者による虐殺など、目を覆いたくなるほどおぞましい写真やアーカイヴ映像が多く映し出され、その背景説明もテロップで明確に表示されたりする。そしてほぼ全ての作品で、若い逞しい男たちが登場する。彼らは、ときに昔のコカコーラのCMのモデルのように海岸で爽やかに笑い、別の作品では暗い部屋で今にも殴りかかってきそうな目でカメラを睨む。母親、セックス、軍、豊かな景観。あるゲイのプライベートな時間、公けの空間での時間。それらの視線や映像が挑発的にモンタージュされる。制限される表現とタイの主流文化で消されるイメージ。その監視と抑圧を跳ね返すように激しく絡み合う身体を見せたり、汗を弾く肌を欲望のままに長回しで見つめる。

しかし『叫ぶヤギ』は違う。『叫ぶヤギ』は実は、2017年にタンサカが注目の若手アーティストのハリット・スリッカオと共同で監督した103分の長編ドキュメンタリー 『Homogeneous, Empty Time』の一部分だ。クーデターが起きた2014年とプミポン王が亡くなった2016年の間に撮影されている。タイトルはアンダーソンが引用したベンヤミンの言葉「均質で空虚な時間」(empty, homogeneous time) からきている。

予告映像の印象とは違い、この映画本編ではとてもゆっくりと目の前の状況を見せるシーンが多い。大きく分けて4つの異なる生活や視点をもった集団の日常を丁寧なインタビューと撮影で順に見せていき、ところどころにそれらの人々を覆う君主制と軍の存在がテレビニュースや街の広告などで挿入され、権力側による市民への暴力の歴史も時に寓話または怪談のように言及される。

他には、キリスト教系の男子寮、士官学校(軍学校)、仏教の名の下に王室を崇拝する集団が登場する。映画冒頭、キリスト教系の寮でふざける少年たちは、夜はサッカーの試合をテレビで観戦するも突如はじまる軍政府のPRに文句を言い、リラックスした雰囲気だ。士官学校も一見少年たちは生き生きとしているように見えるが、そのシークエンスの終わりには学校内の暴力事件の証拠写真も大量に映画は見せる。王のために集う人々の様子は、カルトのようである。穏やかな夕方6時、国歌が流れ、止まる。

『叫ぶヤギ』の撮影地であるパッターニー(パタニ)では、タイ全体ではマイノリティであるマレー系ムスリムの人々が人口の8割だ。登場するカップルは、ムスリムではないアンティチャー・セーンチャイとダーラーニー・トーンシリだ。二人は、BUKUという本屋を2011年にひらき、さらにジェンダーやセクシュアリティや人権に関して学ぶセミナーも開催しているという。映画にも少し映るサッカーは、彼女らの活動の一部であるBuku Football Clubで、現地の女性が参加しやすい環境を作りトーナメントでも競っている。クラブには現在、レズビアンやバイセクシャルであることをオープンにする10代もふくむ70人以上のメンバーがいる。その集まりを通しジェンダーやセクシュアリティをとりまく問題を訴え、性に関する健康の知識などを深めながら、活動をしている。

アンティチャーは本作上映のために来日した際にこう語っている。「(『叫ぶヤギ』で語られることは)実際に起こったことなのですが、タイでは真実を語ることができません。」

2020年のデモが起こったバンコクだけではなく、それ以外のタイの地域のことを、タンサカの作品ともに今後も注目したい。

参考:

・タイ現代文学覚書 44 「個人」と「政治」のはざまの作家たち(福冨渉 著|風響社)) http://www.fukyo.co.jp/book/b341368.html)

・Football in hijab: Thai Muslim lesbians tackle stereotypes (Reuters | Nov. 20, 2020) https://jp.reuters.com/article/us-thailand-lgbt-sport/football-in-hijab-thai-muslim-lesbians-tackle-stereotypes-idUSKBN28A0BR 

・情報提供:坂川直也さん

・2016年に秋田がバンコク訪問時に話を聞いた他のアーティスト ジャッカイ・シリボは、国境沿いの村タクバイで起こった事件をもとに作品を制作している。http://normalscreen.org/blog/jakkais 

本記事公開日:2021年10月27日
編集協力:Jun Fukushima(Political Feelings Collective
写真:Sleep of Reason Films

Say What U Want ステフ・アラナス|歌詞翻訳

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Say What U Want
By Stef Aranas

今更電話してくる あなた

自分が悪かったと認めるって

それが何の役に立つの?

“ごめんね”じゃ食っていけない


だから もう選択肢はない

信頼もないから さよならベイビー

だまくらかせると思わないで

そんなの私が許さない

どうぞ何とでも言って

あなたはもう この身をめぐる血じゃない

あなたに傷つけられたのは むしろ恵みだった

勝ったのは私

あなたじゃないの

どうあがいても変わらない

あなたはもう この身をめぐる血じゃない

この傷は恵み 自分の足で立てたから

勝ったのは私

あなたは もう関係ない

どうあがいても変わらない

勝てない相手に出会っちゃったね

生まれて初めて知ったでしょ

こんな女がいるなんて

あなたが消えて 幸せになる女が

あなたとは さよならするから

同じくらい愛してくれる人を探して

私はそうならないから

もう二度とそうならないから

頑張って他を見つけてね

どうぞ何とでも言って

あなたはもう この身をめぐる血じゃない

あなたに傷つけられたのは むしろ恵みだった

勝ったのは私

あなたじゃないの

どうあがいても変わらないから

あなたはもう この身をめぐる血じゃない

この傷は恵み 自分の足で立てたから

勝ったのは私

あなたは もう関係ない

どうあがいても変わらないから

強い女に男はいらない

バッド・ビッチに男はいらない

ねえ あなたはバッド・ビッチ?

大事なことだよ 覚えておいて

バッド・ビッチに男はいらない

バッド・ビッチに男はいらない

ねえ あなたもバッド・ビッチ?

そう 私は私を分かってる


・翻訳:佐藤まな(2021年9月)
・アラナスの映画『ひとまずさよなら “ユア ビゲスト ファン”』でこの曲は使用されています。
・この曲は、アラナスが制作していた映画『Your Biggest Fan』の主人公のお気に入りの歌として制作された。この歌は、主人公の歌手になるという夢を象徴するものであり、当時のローカルのポップソングを反映している。

Unrest –不安– by ステフ&ユウジ|歌詞翻訳

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– Unrest –不安–
by Stef & Euge

たくさんの人の命を握ってるのに

厚かましくも 私たちを軽んじる

こんなふうに こんなふうに

フィリピンの未来は

輝かしいもののはず

こんなんじゃない 全然こんなんじゃない

なのに あなたは脅し続ける

一生懸命やってる人々を

自分のことを顧みたら?

不安しか伝わりませんよ 閣下

そんなに私たちを苦しめたいの?

責務を全うする気はないの?

母なる祖国を抑えつけるなんて

これまでの責めを負うべき時に

今は

そんな場合じゃない

テレビでデタラメ言わないで

これは

取るに足らないゴシップや

怒りの吐き出しなんてもんじゃない

これは

私たち全員の問題

何百万もの人々がテレビをつける

何かの救いや 具体的な指針を求めて

もしもし?


またあなたが話し出すから

期待して耳を傾ける

でも いつもどおり意味不明

計画くらい用意してくださいな 閣下

そんなに私たちを苦しめたいの?

責務を全うする気はないの?

母なる祖国を抑えつけるなんて

これまでの責めを負うべき時に

ウイルスの抑え込みが急務

でも もう支配体制に入り込んでたら?

守るべき命を殺してるなら?

ウイルスの抑え込みは急務

でも もう支配体制に入り込んでるみたい

今は殺しがあなたの“規律”

閣下 聞いてる?

黙って苦しめられてなんかいない

責務を果たすよう求める

母なる祖国の主は私たち

責任を取らせるまで 決して止まらない

・翻訳:佐藤まな(2021年9月)
・アラナスの映画『ひとまずさよなら “ユア ビゲスト ファン”』のエンディングでこの曲は使用されています。
・ステフ&ユウジ Instagram https://www.instagram.com/stefandeuge/